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2018年5月20日日曜日

何としても中将にして師団長(佐藤幸徳中将)という

高位の軍人を抗命罪に処するために、軍法会議開廷を求める第15軍司令官に対し、同軍法務部長や上級のビルマ方面軍法務部長は、当時の手続法に照らし、15軍や方面軍は将官を裁くための裁判管轄をもたず、それがために軍法会議開廷は原則的に不可能であると応えたにもかかわらず、なおかつ執拗に抗命罪適用による処断を目論む牟田口司令官を納得させるため、方面軍法務部長が自らの責任で、ほとんど成り立ち得ない拡大解釈により捜査権を行使し、佐藤中将は作戦時心神に故障をきたしていたとの理由をこじつけ「不起訴」、すなわち軍法会議を開廷しないとの結論を導き出し事態の収拾が図られた、としています。(高木俊朗『抗命』(1976年))
『軍法会議のない「軍隊」』

2018年5月19日土曜日

特攻中止命令 終戦の2日前

15歳で予科練(海軍飛行予科練習生)となり、航空機操縦の猛訓練を経て1945(昭和20)年8月、鹿児島県の串良海軍航空基地に移った。
13日。いよいよ出撃、別れの日。私と運命を共にする通称「赤とんぼ」に乗り込んだ。本来は練習機だが私に与えられた特攻機で、250キロ爆弾が装着されていた。「落ち着け」と震えの止まらない自分に言い聞かせ、「さようなら」と誰に言うでもなく心で言った。
この期に及んで敵艦に突っ込む心配より、重い爆弾を抱いて飛び上がれるかが心配だった。
指揮する1番機の合図で計4機が滑走路の出発点に並び、エンジンは最大回転に入った。その時、飛行長が前に立ちはだかりバッテンの合図をした。作戦中止だ。何が何だか分からない。
「みんなは若い。しっかり生きていけ」と威厳に満ちた飛行長の言葉。「生きたのだ」と「情けない」の気持ちが交錯し涙が出て仕方がなかった。終戦の2日前のことだった。(大谷光弘さん  89歳)
――『声  語りつぐ戦争』より

2018年5月13日日曜日

百人近くの人たちを取材して、

瀬島龍三の全貌をかなりつかむことができた。そこでわかった大本営参謀時代の実相をあえて語っておくと、要はその人格は四点に絞ることができた。
(一)自らの成した業務は話さない(末端参謀ゆえに些末な仕事が多かった)
(二)自らが仕えた上司や指導者に随行したことを自らの体験のように話す(開戦前、杉山元参謀総長に同行して宮中に赴いたケースなど)
(三)自らがモミ消した疑いのある史実は関係者には洩らしているが、一般には決して話さない
(四)自らの体験を誇大に話す
取材を通じてこの四点にすぐに気づいたのだが、瀬島はさらにいえば「歴史的な自らの証言」と「公と私の区別を曖昧にして必要以上に私の役割を公に置きかえる」といった二つの特徴を色濃くもっている。私は直接、瀬島に二日間にわたって八時間の長いインタビューを試みたが、この特徴を実感した。『幾山河』にもその特徴がよくあらわれていることがわかった。
『帝国軍人の弁明』

話さないことと誇大に語ること

この『幾山河』が昭和史の真実を求める者に評判が悪いのは、そうした事実(大本営参謀としての本音やそれに影響された事実など)がいささかも書かれていないためだ。すでに知られている史実のみがまるで歴史書のように書かれている。
『帝国軍人の弁明』

「長年の伝統からくる「陸は陸」「海は海」

という考え方にとらわれ、「陸海軍統合の全戦力を集中・発揮する」という思想に欠けていたのである」
この結論はとくに目新しいものではない。瀬島が対米戦争計画の策定にかかわっているだけに(たとえ末端幕僚として細部に関してであったにせよ)、その総括がこのようなものであるならば、より具体的に作戦計画のどこにどのような問題があったのかを明らかにすべきであるのにそれが欠如していることは、帝国軍人の回想録としてはいささか不謹慎の謗(そし)りは免れないようにも思えるのだ。
『帝国軍人の弁明』

南部仏印進駐と対日資産凍結

(昭和十六年七月の日本軍による南部仏印進駐は、つまりは「戦争の決意なき準備陣」だったが、陸軍中央部は「北進か、好機南進か」の二者選一に傾いていて、「南北同時二正面作戦は絶対に回避すべき」だったという。しかし米国の石油の禁輸措置により、国力のジリ貧状態を脱すべく「対米戦は避けられないのではなかろうか」と変わっていく。瀬島もそのような方向に変わっていったと記述している)
『帝国軍人の弁明』

昭和十四年十二月に、瀬島(龍三)が

配属されたときの参謀本部は四つの重大問題を抱えていたというのである。
「①ノモンハン事件の後始末
②支那事変の長期化
③修正軍備充実計画(昭和十四年度からスタートした陸軍軍備充実計画の見直し)
④昭和十四年九月から始まった欧州戦争(第二次世界大戦)への対応」
『帝国軍人の弁明』