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2013年12月29日日曜日

八月十二日、猛暑のことである。

局長室の入口のドアは開けられ、入口近くに簀の衝立が立てられてあった。内部は透かして見える。
相沢は入口近くに持ってきたトランクを置き、将校マントもいっしょに置いた。マントは凶行後、返り血をあびた軍服をかくす用意である。衝立の向うに永田の姿が見えたので、軍刀を抜き、無言のままつかつかと衝立の右側から入った。
局長室の永田は二人の将校と話をしていた。一人が新見英夫東京憲兵隊長で、一人が山田長三郎兵務課長であった。新見は折から村中、磯部の「粛軍ニ関スル意見書」の印刷物を永田に見せて報告中だった。
正面に坐って二人と話をしていた永田は、入口から軍刀を抜いて入ってきた相沢を見ると、椅子からすっくと起ち上がった。永田は難を避けるように二人の将校のほうへ寄った。
ところがその相沢に気付かなかったのかどうか、山田兵務課長はさっさとその部屋を出て行ってしまった。つまり、相沢が抜刀して闖入したのと入れ違いに退室したのである。当然にあとで大問題となった。
さて、軍刀を振るって永田に逼った相沢は椅子を跨いだのか、あるいは飛び越えたのか自分ではおぼえていないが、その一撃を永田の右肩に加えた。手ごたえがない。切尖は軍服と皮膚の表面を浅く切り裂いたにすぎなかった。
横の新見憲兵隊長がこの危急を見て机の左側から相沢に抱きつこうとした。
彼は相沢に体当りし、咄嗟に左手を上げて無意識のうちに永田を庇ったために相沢の刃を受け、左上膊に骨膜に達する深傷を負った。新見は倒れ、意識を失った。
その間に永田は隣室の軍事課長室に逃げるつもりでドアのところまで来た。
相沢はドアにぴったり身体をつけた永田を上から斬り下ろすことが出来ないので、刀に左手を添えて背中から突き刺した。これが永田の致命傷となった。相沢も左手の指四本の根もとに骨まで達する傷を負うた。剣道四段の相沢も夢中だったのだ。
永田はその場に倒れたが、なおも気丈に起ち上がった。彼はよろよろしながら応接用のテーブル付近まで行ったが、そこで力尽きて仰向けに倒れた。相沢は切尖を倒れた永田の右のこめかみのところに加え、それから、武士の作法通り、とどめの一刀を咽喉に突き刺した。
この間、一分とはかかっていない。相沢も声を発せず、永田も沈黙のままだった。

永田にとどめを差した相沢が刀を鞘に収め、左手の傷口を自分のハンカチで縛ったのち、廊下に出てマントを着けたときは誰もいなかった。彼は右手にトランクを提げ、凶行のときにとばした自分の帽子にも気づかず、悠々と山岡整備局長の部屋に行った。
山岡の前にきた相沢は、
「閣下。永田閣下に天誅を加えてきました」
といった。

永田軍務局長の遺体写真、日本刀で切りつけられた無残な遺体

公訴事実にも、相沢の性格を、

《資性純情朴直にして感激性に富み、……軍人精神を涵養するに伴い尊皇の信念益々鞏固となり、任官後常に奉公の全からざらんことを憂い、或は明治維新志士の伝記を愛読してその言行に私淑し、或は禅門に入りて心神の修養に努め、私心を去り、至誠皇基の恢弘に邁進せんことを期するに至り》
と断定しているから、これ以上何もつけ加えることはない。

相沢三郎中佐

2013年12月28日土曜日

「派閥とか何とかいわれるが、

それなら永田軍務局長はどうであるか。永田は宇垣陸相のとき三月事件に関与し、陸軍の統制を紊したのみならず、その後の行動は永田こそ派閥的行動をしている張本人ではないか。こういう者を側近において自分らを責めるのは順逆を誤ってはいないか」
真崎としてはここではじめて切札を出したのである。

皇道派は教育総監部にも統帥権が

あるとし、二長官協議の総監罷免は統帥権の干犯だという論理に発展させた。皇道派の真崎総監罷免に関する怪文書のほとんどはこの論理を適用している。

「日本が侵略戦争を行なった」というのは、

東京裁判の検察側プロパガンダ以外の何ものでもありません。
マッカーサーもアメリカ上院の公聴会で、「日本が行なったのは自衛戦争だった」と証言しています。

戦後にアメリカ軍がフィリピンの戦いで

捕獲した陸軍の四式戦闘機「疾風(はやて)」に、オクタン価一四〇の燃料を入れて飛ばしてみたところ、P51ムスタングよりも高い性能を示しました。P51は、第二次大戦最強の戦闘機といわれる飛行機です。つくづく戦争とは総合力だと思い知らされます。

被弾した「鳥海」の艦隊司令部では、

自信も負傷した早川幹夫艦長が、「輸送船団を撃滅しなければ、飛行基地が敵の手に落ちて味方が大変なことになる。だから、鳥海一艦でも敵輸送船団を撃滅する」と主張していたことを忘れてはいけません。艦隊を率いる三川軍一司令長官が、その正論を受け入れて進撃に転じていたら、戦争の帰趨が変わっていたかもしれないのです。

陸軍も似たようなものです。

ガダルカナルで馬鹿げた作戦を繰り返した陸軍の辻政信作戦参謀は、昭和十四(一九三九)年のノモンハン事件でも、稚拙な作戦で味方に大量の戦死者を出しましたが、責任を取って
いません。
インパール作戦で三万人の兵士を餓死させた牟田口廉也中将も、公式には責任を取らされていないのです。
エリート官僚だけは失敗しても出世しつづけ、責任は現場の下級将校たちが取らされました。エリート官僚の「罪」をかぶる形で、多くの連隊長クラスが自殺を強要されたといいます。

失敗を不問に付す組織

真珠湾攻撃における最大の過ちは、第三次攻撃を行なわずにさっさと帰還した南雲長官を解任しなかったことだと思います。指揮官の結果責任が問われないという悪しき先例が、その後の海戦、ひいては敗戦を招いた元凶だといわざるをえません。
アメリカは失敗した指揮官に必ず責任を取らせます。真珠湾を奇襲攻撃されたアメリカ太平洋艦隊司令長官のキンメルは、一九四一年十二月十七日付の大統領命令で司令長官を解任されたうえ、大将から少将に降格されました。
議論の分かれる処分ではあるけれども、アメリカの指揮官は結果責任を負わされました。つまり、戦艦五隻をむざむざ日本に沈められた責任を見逃してはならないと考えたのではないでしょうか。

2013年12月22日日曜日

日本軍隊用語集 ― 特務士官(海)

特務士官(とくむしかん)

海軍士官になるには旧制中学校から兵学校・機関学校・経理学校・軍医学校に入り、そこを卒業して現役士官に任官するのが最もオーソドックスである。
戦争に入ると、幹部不足を埋めるために大学や高等専門学校出を大量に採用して間に合わせるが、商船学校出と同じに予備士官の身分であり、戦争が片づけばお払い箱となって民間人に戻っていく。
特務士官はそのどちらでもなく、兵隊から一段ずつ階段を登りつめ、兵曹・兵曹長という下士官をへて士官となった「たたきあげ」である。
兵隊から選抜のうえに選抜され、さらに長い年月をかけてあるから腕前は抜群、人格も高潔で部下には絶大な信望があり、兵学校出の少・中尉など足もとにも寄れない強力な存在であった。
彼らは普通の兵科・機関科上がりであり、仕事も現役の各科士官と同じで、特務士官の特務は明らかに差別用語で特別勤務をするわけではない。
艦内では分隊長になれず部屋も現役士官とは別、服装も肩章の金線が細く袖章にも差別を表わす桜の花がついている。
日本海軍の真の担い手は、特務士官と下士官であったと胸を張る人もいる。

連合艦隊戦訓18 ― 海戦と隊形

昭和十七年十一月十二日の夜半のことである。ガダルカナル島のヘンダーソン飛行場を、二隻の高速戦艦(比叡、霧島)が三六センチ主砲で艦砲射撃をしようとした直前、ルンガ沖で米艦隊(巡洋艦五隻、駆逐艦八隻)と不時会敵、乱戦乱撃の遭遇戦となったのが、第三次ソロモン海戦の第一夜戦である。
この海戦での問題点は、このような不時会敵をやすやすと招来したことである。その原因は、警戒隊の第四水雷戦隊中、「夕立」「春雨」が本隊のわずか三キロ前方を先行していたにすぎず、「朝雲」「村雨」「五月雨」に到っては本体より後落していたこと、更にはスコールによる悪天候のために、好機を待つため一時反転したが、その後の隊形の乱れを司令部がまったく気づいていなかったことである。

この日の早朝、ガダルカナル島にいる海軍部隊から、次の情報が寄せられていた。
「〇三四〇、敵兵力は輸送船五、軽巡三、重巡二、駆逐艦一一よりなる、輸送船は荷役を開始せり」
日没ころ、「比叡」から発進した零式観測機の偵察によれば、ルンガ泊地に敵艦船十数隻が在泊していることを伝えていた。
またガダルカナル島の海軍部隊から、
「敵は一七〇〇ころまで荷役を実施す、以後、視界狭小となり状況不明」
との連絡が入った。この敵情報告は、明らかに敵水上艦艇が待ちかまえていることを予測するに十分なものである。

挺身攻撃隊は午後十一時三十分、射撃準備を下令、飛行場までの距離二万メートルで測的を開始。
「砲撃目標、敵飛行場」
と、下命した直後である。十一時四十二分、突然、前路掃討中の「夕立」から、
「ルンガ岬方向に敵艦影七隻見ゆ、距離六〇〇〇メートル」
と報じた。ついでこの一分後、「比叡」も、約九キロ前方に敵巡洋艦らしい艦影四隻を認めたのである。
突然の会敵に、阿部弘毅中将指揮下の挺身攻撃隊も極度に混乱を呈した。
この状況の中で、一時五十分、「比叡」はとつじょとして、右舷側に黒い艦影が近づいてくるのを発見した。間、髪をいれず、阿部中将は命令した。
「右舷艦影に照射はじめ!」
「比叡」から、さっと一条の探照燈の光束が闇を切って走った。その光芒の中に、大型巡洋艦が幻燈のように浮かび上がった。巡洋艦列の一番艦「アトランタ」である。距離はおよそ一五〇〇メートル。
「撃てッ!」
号令一下、「比叡」の三六センチ主砲が砲身を水平にして火を吐いた。初弾命中。
強靭な燃焼力をもつ三式弾が、「アトランタ」の艦橋に炸裂した。つづいて巨砲のつるべ撃ち。しかし探照燈の照射で「比叡」の目標がはっきりしたため、他の米艦の砲火がいっせいに「比叡」に集中した。

米軍損害、沈没=駆逐艦四、軽巡一。大破=重巡二、軽巡一(のち沈没)、駆逐艦一。中小破=駆逐艦二、軽巡一。
日本軍損害、沈没=「暁」「夕立」の二駆逐艦。中破=「天津風」「雷」。八〇発以上の命中弾を受けて大破していた「比叡」は、翌十三日午前五時三十分より始まった、敵雷爆撃機の反復攻撃により、同午後四時、ついにキングストン弁を開き自沈。

第三次ソロモン海戦の前半戦は、日本艦隊の勝利となった。しかし敗れたとはいえ、米艦隊が、飛行場砲撃の阻止に成功したことは事実である。

戦訓。
一、スコール下では盲目状態になるので、艦隊運動には、よくよくの注意が肝要。
二、敵存在の情報がある以上、たとえその情報に疑念があったとしても、まず第一にこれに備えておくことが先決。



空襲を受ける戦艦「比叡」

2013年12月21日土曜日

日本軍隊用語集 ― 将校(共)

将校(しょうこう)

明治の前期には陸海軍とも兵科の数が少なく、少尉から大将までのすべての幹部武官は士官で、幹部の養成学校も士官学校と名付けられた。その下の下級管理職が下士官である。
時代とともに組織が複雑化して次々と新しい職種が生れてくると、歩兵・騎兵・砲兵・工兵の戦闘兵科や憲兵科などの士官は将校となり、軍医・獣医・薬剤・経理科などの士官は将校担当官と呼ばれて区別されるようになった。
海軍も同じで、砲術・水雷・航海などの兵科の士官は将校で、縁の下の力持ちの機関科や軍医・主計科士官は将校ではなかった。

連合艦隊戦訓17 ― 戦場心理 誤報事件

昭和十七年四月二十六日のこと、日本軍はポートモレスビーおよびツラギを攻略する準備でおおわらわになっていたときである。その真っ昼間、ソロモン諸島の北方海域を哨戒中の飛行艇から、「敵見ゆ、空母一、巡洋艦一、駆逐艦二、ラバウルの一一三度二二〇カイリ(南東方面約四〇〇キロ)」
と報告してきた。さあたいへんだ。ラバウル港には、出撃を前にした攻略部隊の船団がひしめいている。
緊急警戒と攻撃準備に、各基地では異常な興奮につつまれていた。ところが、索敵、触接のため発進した水偵や大艇は、視界三〇カイリ以上の好天にもかかわらず、敵を発見しなかった。
ラバウルでは首をひねった。敵発見の位置を調べ直すと、ブーゲンビル島のキエタ沖約二〇カイリの地点ということである。これはあまりに陸地に近すぎる。
どうもおかしいというので、帰投した索敵機の搭乗員たちを呼んで調査した結果、敵発見の地点付近には、船によく似た珊瑚礁のあることがわかった。結局、この珊瑚礁を敵機動部隊と誤認したのであった。
ラバウル方面の第八特別根拠地隊司令官金沢正夫少将(のち中将)は、当時の日誌に、
「敵機動部隊と騒ぎしも実は岩四と誤認、この頃の航空部隊の戦務の悪しきにも困る」
と記し、慨嘆している。

2013年12月15日日曜日

七月十五日付で真崎甚三郎教育総監の罷免

が断行された。
これが直接に相沢事件を起し、ひいては二・二六事件を誘発する要因の一つになる。
林銑十郎が陸相になってからの人事問題はことごとく真崎の横槍があった。
林人事の構想はいうまでもなく永田鉄山軍務局長のプランによるものであった。

林は最後の切札を出した。
「君がどうしても不同意というなら、軍の統制の必要から、この際部内の総意に従って総監の地位を勇退してほしい」


2013年12月8日日曜日

1941年12月8日のラジオニュース

2007年12月8日に聴く、1941年12月8日のラジオニュース - YouTube

大本営陸海軍部 十二月八日午前六時発表

「攻城砲兵司令官は二十八サンチ榴弾砲をもって、

ただちに旅順港内の敵艦を射撃、これをことごとく撃沈せよ」
その十分後に、二十八サンチ榴弾砲の陣地から殷殷と砲声がひびきはじめたのである。
その砲声のすさまじさは、地に亀裂を走らせしめんばかりの物凄さであった。
その命中精度は、百発百中であったといっていいであろう。

二十八サンチ榴弾砲

2013年12月4日水曜日

児玉(源太郎)の重砲陣地の大転換は、

みごとな功を奏しつつあった。
二〇三高地に対する歩兵の突撃が開始されたのは、十二月五日の午前九時からである。
同十時二十分には二〇三高地西南角は完全に日本軍によって占領された。
二〇三高地東北角のロシア軍に対しては、午後一時三十分、攻撃を開始した。銃剣をきらめかせて突撃し、わずか三十分で占領を確実にした。
 
この間、児玉は始終戦闘経過を注視しつづけた。
児玉は、二〇三高地占領がほぼ確定した午後二時、みずから有線電話にとりつき、山頂の将校にむかって電話した。
「そこから旅順港は見えるか」
受話器に、山頂からの声がひびいた。
「見えます。まる見えであります。各艦一望のうちにおさめることができます」
 

2013年12月1日日曜日

大山巖は、すべて了解した。

かれはこのとき日露戦争においてかれが出したあらゆる命令のなかで、唯一の秘密命令を出すのである。
やがて筆をとり、数行の文字を書いた。
「予に代り、児玉大将を差遣す。児玉大将のいうところは、予の言うところと心得べし」
という旨のもので、要するに児玉は総参謀長としてゆくのではなく、代理ながら総司令官としてゆくのである。この一札があるかぎり、軍隊における統帥秩序の紊乱ということは、形式上、避けられるであろう。

「しかし児玉さん、これをお使いなさるか」
と、大山はいった。
「そこは心得ています。十中八九は、使わずに済むとおもいます」

 大山巌

日露戦争中、満州で。

「いよいよ第七師団をやるのか」と、帝は、

この師団を旅順へやることを山県からきいたとき、そうつぶやいてしばらく無言をつづけた。第七師団が征けば、もはや日本は空であった。
北海道出身者をもって構成されている第七師団長は、薩摩人大迫尚敏であった。
全員が旅順要塞の敵の壕の埋め草になることはわかりきっていた。

「士卒の士気はどうか?」
と、帝はきいた。
大迫は薩摩弁まるだしで、士卒がいかに張りきっているかということを、大声でのべた。
「戦に勝つ、勝ったあと、北海道の師団ばかり征かんじゃったとあらば、北海道ンもんは津軽海峡の方ば顔むけ出来ん、ちゅうてどぎゃんにも焦っちょりましたるところ、ありがたくこのたび大命くだり申して……」
と、大迫はやったため、帝はよほどおかしかったらしく、声をあげて笑った。旅順へゆくというこの師団の陰惨な運命への思いやりが、この大迫のユーモアをまぜた報告のおかげで、帝の胸を霽らした。
「開戦以来、お上があれほど大声でお笑いになったことがない」
と、岡沢精侍従武官長があとで述懐した。

第七師団長 大迫尚敏

伊地知が得る前線状況は、

多くは第一線の青年将校からのまた聞き(階級的段階をへての)であった。乃木はそれでも苦情をいわなかった。乃木は金州で長男をうしない、のちにこの戦場(旅順)で次男をうしない、さらにかれ自身も出征の当初から死を決意していたが、かれの最大の不運はすぐれた参謀長を得なかったことであった。
乃木の高等司令部は、参謀長である伊地知の存在のために前線の感情からうきあがってしまっていた。
ある旅団長は、たまりかねて東京の長岡外史に手紙を書き、
「伊地知は、作戦というものをなにも知らない。つねに敵情や前線の事情に即しない命令を出してきては、いたずらに犠牲をふやしている」
と、直訴したりした。この文章のなかに伊地知のことを、
「老朽変則の人物」
と、きめつけている。
死傷者一万六千にのぼった第一次総攻撃のあと、伊地知参謀長が満州軍に送った報告文は、ほとんど素人同然の内容で、その粗末さは児玉らをおどろかせた。
「諸報告を総合するに、敵の堡塁や砲台は予想以上につよい。堡塁は堅固に掩蔽されており、しかも堡塁外を掃射すべき銃眼をそなえている」

 

 

2013年11月30日土曜日

大型汽船であった。マストに英国旗

をかかげているが、眼鏡でとらえたところでは清国陸軍の将兵を満載していることがわかった。
「ただちにとまれ。ただちに投錨せよ」
と、浪速は信号をあげた。
浪速の艦長は大佐東郷平八郎であった。
かれは英国船長に対し、
「その船をすてよ」
と、信号で命じた。
ところが高陞号の船内は騒然としており清国兵は船長以下をおどし、下船させなかった。東郷はこの間の交渉に二時間半もかけたあげく、マストに危険をしらせる赤旗をかかげ、そのあと、撃沈の命令をくだした。浪速は水雷を発射し、ついで砲撃した。
高陞号はしずんだ。
船長以下船員はことごとく救助されたが、清国兵はほとんど溺死した。
この事件はすぐ上海電報によって英国に打電され、最初の報道はきわめて簡単であったために英国の朝野を激昂させたが、やがて詳細がわかるにつれて浪速艦長東郷平八郎のとった処置は国際法にてらしてことごとく合法であることがわかった。

(秋山)好古はやむをえなかった。

先祖代々禄を食んできた恩というものが旧藩士にはある。
「渡仏します」
と、無造作にいった。いった瞬間、陸軍における栄達をあきらめた。
そういういきさつがあって、秋山好古は明治二十年七月二十五日、フランスへむかうべく横浜を出帆している。

2013年11月24日日曜日

フィリッピンの戦線は後退

につぐ後退である。米軍は三日マニラに突入したと。きょうあたりすでに完全占領されたのではあるまいか。新聞には、「敵に大出血を与う」としきりに出ているが、なにほどの損害もあたえ得ず後退していることは、現地はむろん知っており、新聞記者も知っており、大本営も知っている。要するに誰も信じてないことを、「大出血々々々」と日本中で言い合っているのだ。

兵術の時間、「銀河」が

期待をうらぎってあまり役に立たないというはなしを聞き、がっかりした。一式陸上攻撃機は其の形状から「葉巻」と呼ばれていたが、此のごろではみんな、マッチといっている。すぐ火がつくからだ。しかし「銀河」の搭乗員のなかには、「一式陸攻の方がまだましだ」との声があるそうで、整備がむずかしく、始終事故をおこしているという。これは出水で自分たちがたびたび実際に見たところでもある。

比島戦で第一航空艦隊が出撃させた

神風特別攻撃隊というのは、異例の攻撃部隊で、みんな戦闘機に特殊爆装をして、飛行機ごと体あたりをしたのだという。
神風隊の指揮官S(関)大尉は。ここ(宇佐海軍航空隊)の艦爆出身で、われわれが来るすこしまえに宇佐を出て行ったのだそうだ。別府の千疋屋では神風隊のニュースを聞いて、ついこのあいだ、「俺が死んだら、汁粉と果物をそなえてくれ」と言っていらしたのにと、女たちは泣いていたとか。

いまとなっては、真珠湾の戦果は日本を仇にした。

ひとつには「リメムバア・パール・ハーバー」の合言葉を敵にあたえて全アメリカを団結させ、ふたつには海軍の自郎自大の風を生ぜしめて、「沈黙の海軍」は消滅した。新聞の狂態――討ちてしやまん、見敵必殺、鬼畜米英等、内容空疎な言葉の安売りを、中央の海軍が煽動しているのは、なんということであろう。「サイレント・ネイヴィ」という言葉は、いまや「チャタリング・ネイヴィ」とでも置きかえるがよい。
海軍のよき伝統は、ただ其の形骸の旧套墨守となって、精神は失われた。

志望機種の調査があった。

自分は第一志望艦上攻撃機、第二志望陸上攻撃機。要するに魚雷を抱いてゆく決心である。われわれがやらなければ、けっきょく誰もやるものはありはしない。敵は大宮島(グアム)にあがった。パラオにもやって来た。昨日は大連が空襲を受けたらしい。あすから第一分隊と第八分隊は夜間飛行がはじまる。夜間飛行といえば、もう終極の課目である。短時日のあいだにわれわれも進んで来たものだ。静かに死の用意をせよ。

2013年11月20日水曜日

最前線特攻基地知覧「なでしこ隊」

昭和二十年、最前線特攻基地知覧。
出撃命令が出るまでの何日か、娑婆の最後のひとときの世話をしたのが、地元の知覧高等女学校の女学生たち「なでしこ隊」だった。
陸軍の指定食堂「富屋食堂」の「特攻の母」鳥浜とめさんの娘さん、礼子さんもその中にいた。
特攻隊員たちは、女学生たちの振る桜の小枝と日の丸に送られ、何度も何度も振り返りながら、標高約千メートルの開聞岳を越え、沖縄に向け旅立った。
二度と帰らぬ死装束の出撃だった。

2013年11月19日火曜日

東條(英機)にとっては、石原(莞爾)の「五族協和」

「王道楽土」「東亜連盟」の思想などは、共産主義とおなじく、毒虫であった。
東條は、日本が東亜の盟主、つまりは支配者になるべきだと信じて疑わなかった。
石原と正反対の思想といえる。

2013年11月17日日曜日

着陸時五メートルの引きおこし、

これがやはりいちばんむずかしい。陸軍機とちがって、母艦の発着をやるたてまえから、海軍機は五メートルで引きおこして失速させ、尻を下げた三点姿勢で着陸しなくてはいけないのだ。なんどやっても前車輪着陸になる。充分慣熟しなくてはならない。

2013年11月14日木曜日

責任なき戦場

作家の高木俊朗氏の名著『インパール』の中に、次のような記述がある。

「親愛なる日本の兵隊さんだけに聞いていただく放送です。ばかな将校は聞かないで下さい。では、音楽をお聞かせしましょう」
つづいて、レコードが鳴りはじめた。凄惨な戦場に、はなやかな音楽が流れる。『東京音頭』である。谷の下で、兵隊が顔を見合わせながら聞く。
――ヤアト、ナアソレ、ヨイヨイヨイ
にぎやかな囃子が終ると、
「あなた方は、部隊名を隠しているが、われわれはよく知っています。あなた方は弓第二百十四連隊、白虎部隊という別名を持った勇敢な部隊です。あなた方はインパールに行くつもりで、ここまできました。しかし、われわれは、おやめなさいと忠告をします。ムダグチはインパールを包囲したといっていますが、それはヨタです。烈はコヒマでばらばらになっています。コヒマにいるのは英印軍です。祭はほとんど壊滅しました。祭の一個大隊は三十五名となり、軍曹が大隊を指揮しています。これを皆さんは、どう考えますか。これは鉄と肉の戦いです。日本軍得意の肉弾も、鉄の壁、鉄の戦車、飛行機には、まったく勝ち目のないことは、すでに、皆さんがよくごぞんじでしょう。ところで、もう一度、音楽をお聞かせしましょう」
声をのんだ沈黙の空気のなかに、静かな曲が流れ出す。
――待てどくらせど、こぬひとを……。

この短いエピソードのなかに、インパール作戦で日本軍の陥った状況が象徴的に表されている、と私は思った。文中にある弓、祭、烈というのは、この作戦に参加した第三三師団、第一五師団、第三一師団のそれぞれの呼称である。また、「ムダグチ」とあるのは、この三個師団を指揮した第一五軍司令官・牟田口廉也中将のことである。

2013年11月10日日曜日

江田島海軍兵学校 五省

一、至誠(しせい)に悖(もと)る勿(な)かりしか
真心に反する点はなかったか
一、言行に恥づる勿かりしか
言行不一致な点はなかったか
一、気力に缺(か)くる勿かりしか
精神力は十分であったか
一、努力に憾(うら)み勿かりしか
十分に努力したか
一、不精に亘(わた)る勿かりしか
最後まで十分に取り組んだか

▶ 日本テレビ開局55年記念番組 東京大空襲 第2夜「邂逅」 - YouTube

▶ 日本テレビ開局55年記念番組 東京大空襲 第2夜「邂逅」 - YouTube

2013年11月9日土曜日

▶ 日本テレビ開局55年記念番組 東京大空襲 第1夜「受難」 - YouTube

▶ 日本テレビ開局55年記念番組 東京大空襲 第1夜「受難」 - YouTube

「長官一行の陸攻二機、

午前七時四十分ごろ、P38十数機と交戦、二番機はモイラ岬海上に不時着、参謀長、艦隊主計長(いずれも負傷)、操縦員一名救出、一番機はブイン西方約十一マイルの密林中に火を噴きつつ浅き角度にて突入せるものの如く捜索手配中」

2013年11月4日月曜日

近藤泰一郎は、「死ぬ気で、

――少なくとも死んでもいいという気持で出て行かれたと思いますね。陸軍で言えば敵の歩兵の鉄砲玉がポンポン飛んで来るようなところへ、わざと出て行ったんですから」
と言っている。

高木惣吉は、「山本さんのあと

聯合艦隊の指揮をとれる人は、山口(多聞)さんか小沢(治三郎)さんしかいないが、山口さんは先にミッドウェーで亡くなったし、海軍の機構は今もって年功序列の金しばりで、これはもうおしまいだ」
と、はっきり思ったそうである。

2013年11月3日日曜日

実をいうと、山本の方は、辻政信を

あまり信用していなかった。辻が、戦況が思わしくなくなると、中央連絡などと称して逃げ出してはスタンド・プレイをやっているのを、苦々しげに、
「あんな者をのさばらせておくから駄目なんだ」
と言っていたことがあるそうである。

笹川良一は、日本の右翼の中で

たった一人親英米の腰抜けとされていた山本をかばった人であった。山本の紹介状をもらって中国へ出かけた折、笹川は南京で、総軍の参謀をしていた辻政信に威勢のいい話を聞かされたことがあった。辻が、汪政権の顧問役の、のちの大東亜大臣青木一男と口論になり、ぐずぐず言ったらぶった切ると軍刀をがちゃつかせたら、青木が青くなって逃げて行った、弱い奴だと、辻が笑っていたという話である。
「それで、その時青木は、武器は何を持っとったんや?」
と笹川は聞いた。
「で、青木が丸腰で、あんたの方は、何を持ってた?」
「軍刀とピストル持ってる人間が、丸腰の人間脅したら、相手が青うなって逃げて行くのはあたり前で、そりゃ、あんたの方がよっぽど弱虫やないか」
と彼は辻に言った。
山本は笹川が笹川流の一種の是々非々で、誰にでもこういう風に思ったことを言う点、それから、航空に強い関心を持っている点を買っていたらしい。

日本軍隊用語集 ― 参謀(共)

参謀(さんぼう)

はかりごとに参画する、つまり指揮官を助けて作戦計画案を練る参謀の職名は、中国から伝わり日本でも古くから使われている。
秀吉の竹中半兵衛、信玄の山本勘助といった知恵袋は「軍師」であったが、維新戦争には板垣(退助)参謀や黒田(清隆)参謀の名があちこちに見え隠れしている。
英語では民間と同じスタッフ(STAFF)、自衛隊では参謀の言葉をきらって「幕僚」となっている。
すべての参謀は指揮官に属するが、内部には統轄者としての参謀長、次席の高級参謀先任参謀、仕事別に作戦参謀情報参謀通信参謀後方参謀(兵站)などがあり、政府や陸海軍省などの連絡役の政務参謀などもあった。

明治のはじめ、陸軍は強力なプロシア陸軍の参謀制度を採用して、モルトケ将軍の愛弟子のメッケル少佐を乞い受け、陸軍大学校をつくって参謀を育成し始めた。メッケル少佐の教育方針は机の上でなく実地体験主義で、ぞくぞくと生まれた参謀たちが日清・日露戦争で大活躍した。大山巖満洲軍総司令官を助けた児玉源太郎参謀長はその代表である。

参謀たちが、ときに司令官の委任状をもち、ときにはそれなしに司令官の代わりに前線に出かけて指揮権を発揮する。
もともとスタッフであって、何の指揮権もないからこれは明らかに専断であり、下克上であった。しかし、司令官はこれを”日本的名将”になろうとして黙認し、一部の骨太な者を除いて前線の部隊長たちはこれに従った。士官学校のはるかに先輩の師団長中将が、若い中佐参謀に命令されて動くようなことになる。

戦後、参議院議員となりベトナムで行方不明となった辻政信参謀などは、ノモンハン戦、シンガポール戦、ガダルカナル戦、北部ビルマ(ミャンマー)戦などで、独断で次々と軍司令官命令を出して前線部隊をキリキリ舞いさせた。
本来参謀には指揮権もない代わりに責任もないから、敗戦の責任はいつも軍司令部がとらせられ、辻参謀はその行き過ぎを罰せられることもなかった。

終戦時に近衛師団長の森中将を斬殺して偽の師団命令をつくり、クーデターを起こそうとした近衛師団の参謀たちもそのパターンである。

サイパン戦の指導をした晴気中佐が、その責任を感じて市ヶ谷の陸軍省の庭で腹を切ったことなどは例外中の例外であった。

戦後多くの敗因追及のなかにも、この日本陸軍の参謀制度の欠陥をその一つにあげる人もある。

戦訓16 ― 被害対策の不備

日本海軍は、攻撃力を発揮するための訓練や戦策は徹底的に行なってきたが、防御については一般に関心が薄かった。
艦艇についても、敵弾が命中して被害が生じた場合、その損害をいかに最小限に食い止めるか、どのように応急処理をほどこすべきかなど、被害局限の研究がきわめて不足していた。
そうした研究不足のツケが、ミッドウェー海戦での四空母の被害に現われたのである。
とくに空母の飛行甲板が損傷したときの応急修理が、日本海軍ではほとんど研究されていなかった。また、爆弾が命中したことを想定した訓練も行なっていなかった。
これに対して、米空母の被害対策は念入りに研究され、消火対策や応急修理などの準備は格段に進んでいた。
もっとも典型的な例は、空母「ヨークタウン」の場合、この海戦でも珊瑚海海戦のときでも、被爆して火災となったが、いずれも消火に成功したばかりか、飛行甲板の応急修理を行なって、短時間のうちに飛行機の発着艦を可能にしている。
これに対して日本軍の四空母は、応急修理はおろか、火災を鎮火することもできなかった。「飛龍」の場合は消火に成功していたなら、艦を救うことができたと思われる。

戦訓15 ― 欠けていた空母の防御法

「空母は卵を入れた籠のようなもので、一発の爆弾があたれば、搭載機はつぎつぎに誘爆を起こして、結局ぜんぶ破壊されてしまう」
ところが、ミッドウェー海戦で、日本海軍にはその防御システムが皆無に近い状態であったことに初めて気づいたのであった。
空母を防御する対策としては、レーダーの開発、見張り機関の強化、上空警戒機の性能や機数、直衛艦の数、対空砲火の精度やその数など、これらを一元的に統制する指揮機関と通信施設が要求されるのだが、そのほとんどが、日本海軍には欠けていたし不十分であった。

防空戦闘のさい、無線電話は装備しているものの、雑音がひどくてほとんど実用にならなかった。
ミッドウェー海戦での南雲部隊は、まだレーダーを装備していなかった。
当時の一航艦の兵力は空母四隻を中心に戦艦二隻、重巡二隻、軽巡一隻、駆逐艦十二隻である。空母の直衛を考えると、来襲敵機を一刻も早く発見するために、十分遠方に警戒艦を派出することはできなかった。
各空母がもっている戦闘機は一八機ずつである。このうち半数は第一次攻撃隊で出撃し、残りの半数は第二次攻撃隊用である。その中から三機だけ割愛して上空警戒にあげていた(合計一二機)という情況なので、十分な見張りはできなかった。
そこへ敵機が来た。上空警戒機だけでは足りないので、残りの戦闘機も全機が飛び上がって防空戦を展開した。このため、各空母とも飛行甲板を上空警戒機の発着に専用される結果となり、その後の攻撃準備に大きな支障をあたえたのである。

ミッドウェー海戦によって、日本軍は初めて空母部隊の運用法を学んだのであったが、時すでに遅かった、といえよう。

2013年11月2日土曜日

参謀長の草鹿龍之介は、その著「聯合艦隊」

の中で、南雲が、
「参謀長、君はどう思うかね。僕はエライことを引き受けてしまった。僕がもう少し気を強くして、きっぱり断わればよかったと思うが、一体出るには出たがうまく行くかしら」
と言ったと書いている。

「過去九ヶ月間の交渉を通じて

自分は一と言の虚言も述べなかった。それは記録が証明するだろう。自分の公職生活五十年の間、自分は未だかつて、このような恥ずべき偽りと歪曲とに充たされた文書を見たことが無い」
と言った。
野村、来栖の両大使は、無言のまま、ハルとつめたい握手を交わして、国務省を退出した。

南雲部隊が帰途についたことを知った「長門」の

司令部では…
幕僚たちはほとんど全員一致で、再攻撃の提案をすることになった。
山本はこれに対し、
「いや、待て。むろんそれをやれば満点だが、泥棒だって帰りはこわいんだ。ここは機動部隊指揮官に委せておこう」
と言い、
「やる者は言われなくたってやるサ。やらない者は遠くから尻を叩いたってやりゃしない。南雲はやらないだろ」
と言ったと伝えられている。

日本軍隊用語集 ― 元帥(共)

元帥(げんすい)

この帥の字は、師団・師弟・師範などのツクリが一本多い師の字とよくまちがえられ、師は常用漢字にあるが、ほとんど使われない帥のほうは入っていない。
辞典によると、帥とは①ひきいる、②したがう、と正反対の二つの意味をもつ妙な字で、将帥(将軍)、帥先(みちびく)などとともに高級軍人を表わす語群である。

一八九八(明治三一)年一月、明治天皇は「元帥府設置の勅語」を下し、”特ニ元帥府ヲ設ケ陸海軍大将ノ中ニテ老巧卓抜ナル者ヲ簡選シ朕ガ軍務ノ顧問タラシメ”と定めた。選ばれた大将が天皇側近のこのグループに入ることが、”元帥府ニ列セシメ”となる。
これによれば最高軍事顧問官なのだが、一般の政治・行政については元首相や元議長からなる「枢密院顧問官」があり、軍事についても元陸海軍大臣や参謀総長・軍令部総長などの将官からなる「軍事参議官」というのがあったから、この元帥府は意地悪くいえば、功績のある老陸海軍大将の名誉ある隠居所のようなものであろう。

中将までは定年制があり、これに達すると退役や予備役に回されるが、大将は生涯死ぬまで現役で、大将の一つ上級の元帥も現役となる。
明治憲法によれば全軍の最高指揮官は天皇その人であったから、天皇は大将でも元帥でもなく大元帥であり、大元帥陛下がその代名詞でもあった。

日本では名誉階位であったから、日露戦争後の論功行賞で手柄を決めたときに、陸軍の大山総司令官、黒木第一軍司令官、奥第二軍司令官、野津第四軍司令官、海軍の東郷連合艦隊司令長官が元帥に昇進した。
この中で一人、第三軍司令官の乃木大将だけが旅順攻撃の損害があまりに多かったためにその選にもれた。後日、乃木大将は明治天皇のあとを追って自刃したが、選にもれた口惜しさもその一因であったとする俗説もある。

戦訓14 ― 不用意な索敵計画の変更

ミッドウェー作戦では、出撃当初から敵艦隊は出現しないだろうとの先入観が強く働いて、第一航空艦隊の作戦計画が途中でどんどん変更されていった。
作戦変更のなかで注目されるのは、索敵計画の変更である。
第一航空艦隊(南雲機動部隊)司令部では、この作戦は味方の基地航空部隊の届かない海面で行なわれるので、偵察機の索敵力を高める必要のあることを痛感した。
そこで燃料の増加タンクを装着、四〇〇カイリ(約七四〇キロ)進出して索敵できるように改造した艦攻一〇機を準備し、また航続力の大きい新鋭二式艦偵(彗星に増槽、高度三〇〇〇メートル、速力二一〇ノットで航続力二一〇〇カイリ)二機を臨時に「蒼龍」に搭載するなど、索敵、偵察を重視する処置をとったのであった。
準備としては、まずまずの処置である。これを予定どおり運用しておけばよかったのだが、その後、状況判断がしだいに変化してきて、攻略作戦を実施しているときは、敵の空母は出現しないと判断されるようになってきた。
そのため一航艦司令部では、当初の念入りな索敵計画を変更し、単に”念のため”に索敵するという軽いものにしたのであった。そして増槽装備をほどこした艦攻のほとんどを、索敵任務からはずして攻撃隊に回してしまったのである。

日本海軍では索敵のしかたとして、一段索敵と二段索敵の二つの方法を採用していた。
一段索敵というのは、黎明時に全索敵機を同時に発進させる方法である。したがって一回きりの索敵法である。
二段索敵とは、黎明前に第一次索敵隊を発進させ、間を置いて黎明時に第二次索敵隊を発進させるという二段構えのものである。あとから発進した索敵隊は、最初の索敵隊が暗いため見逃した近距離を、重点的に索敵するのを心構えとされた。

一段索敵の場合は、使用する機数が一回だけなので少なくてすむが、明るくなってから発進させるので、進出の先端付近の索敵が遅れるという欠点がある。万一、敵がいた場合は、味方のほうが先に発見されて、先制攻撃をうけるおそれがある。
これに対して二段索敵は、全索敵海面の索敵が早くできるが、使用機数が一段索敵の約一・五倍とふえるため、攻撃隊の機数がそのために割愛されるという欠点があった。

ミッドウェー作戦が開始され、作戦海域に進出したとき、一航艦司令部は、一段索敵を採用して”念のため”程度の索敵を実施した。使用機は零式水上偵察機五機と九七艦攻二機の合計七機である。進出距離は三〇〇カイリ、測程(帰りの幅)六〇カイリで扇型に発進させた。
この計画では、先端での隣りの機との間隔が一二〇カイリ(約二二二キロ)となり、これは開きすぎである。粗雑な計画といわねばならない。

情報を甘くみていたのは、一航艦の司令部だけではなかった。いわば全軍のタガがゆるんでいた。
午前一時三十分に全索敵機が発進すべきところ、時間を守ったのは「赤城」機、「加賀」機、「榛名」機のみで、「筑摩」機の二機は五分遅れ、「利根」一号機は十二分遅れ、同四号機にいたっては三十分遅れだった。
そのうえ「筑摩」一号機は、雲上飛行を行なったり、利根」四号機は、進出距離を勝手に縮めるなど、真剣味がないばかりか、命令違反の行動をとっている。

ことに敵の水上部隊の発見が遅れて、南雲長官の戦闘指揮に大きな影響を与えたのは、摩」一号機の雲上飛行である。
同機が雲を避けて雲下飛行を行なっておれば、午前三時ころ(ミッドウェー島空襲の三十分前)にはスプルーアンス少将の率いる「エンタープライズ」と「ホーネット」基幹の機動部隊を発見できたはずである。
そうなれば、南雲長官の兵装転換(四時十五分に下令)の問題も起きなかったし、かえって日本軍が敵機動部隊を先制攻撃して、これを全滅させることができたものと考えられる。

戦訓13 ― 偽電にひっかかる

緒戦当時、アメリカの情報収集能力や暗号解読の技術は、日本側が考えていた以上にすぐれたものがあった。
昭和十七年四月の初旬ころ、南方作戦を終えた日本艦隊が、本土に集結するらしいとの情報を米軍は入手した。
つまり四月五日にミッドウェー作戦が正式決定した直後、早くも米軍は日本海軍の行動変化をキャッチしているのである。
四月末ごろから、ハワイの情報隊は、日本海軍の暗号電報をキャッチして、断片的に解読していた。
その後、暗号解読が進むにつれて、日本軍の企図している作戦の輪郭がぼんやりと浮かび上がってきた。暗号の中にAFという符号がだんだん多くなってきた。
情報隊は古い資料などを調査して、これはミッドウェーを指している公算が大きいと判断した。また暗号のなかにAQ、AOBなどの符号があった。情報部は、これはアリューシャン方面の島を指しているのではないかと推測した。この判断は正しく、日本軍はAQをアッツ島、AOBはキスカ島を指す符号として用いていた。
いまや日本軍の進攻目標を解明することが急務となった情報部では、ミッドウェーにまちがいなかろうと判断はしていたが、これを確認するためにニミッツ大将の承認を得て、日本軍にオトリの偽電を送り込む計略を実施した。五月十一日、ミッドウェーの守備隊長は、情報部の計画にしたがって、
「真水蒸留装置が故障、飲料水不足中」
とハワイの司令部宛に平文で発信した。これに対して司令部は、同じく平文電報で、真水をバージ船で送るむねを回答した。
情報部は、この偽電が日本軍にどう伝わるか、固唾を飲んで待ちかまえた。二日後の十三日、
「AFは真水が欠乏している」
と通報する日本軍の暗号電文が解読されたのである。計略はみごとに成功した。これで進攻目標がミッドウェーであると断定できたのであった。
ついで情報部は、日本軍の攻撃開始日を解読することに成功、手の内を見破られた日本機動部隊は、やがて大敗北を味わうことになるのである。

2013年11月1日金曜日

二・二六事件以後、日本が戦争に向って

歩を進めた過程の中で、海が不意に深くなるように、戦争への傾斜が段を成して急に深まった場面が幾つか数えられるが、南部仏印進駐は、その大きなステップの一つであった。
山本は最初に、井上航空本部長に向って、
「井上君、航空軍備はどうなんだ?」
と聞いた。
井上は、
「あなたが次官の時から、一つも進んでおりません。そこへこの度の進駐で、大量の熟練工が召集され、お話にならない状態です」
と答えた。

日本軍隊用語集 ― 武官(共)

武官(ぶかん)

今でこそ公務員は公僕ともいわれ国民にサービスする立場だが、つい半世紀前までの日本は極端な官尊民卑の国であった。官という国家機関に属する役人、天皇の官吏は国民の上に位置し、官と民とは上下関係をもつ階級であった。
大本営の発表にも「官民一体となり敢闘せり」などの文句があり、明治以後も官は武士であり民は農工商人であった。

軍隊は天皇の軍隊であったが、兵隊は武官ではなく、ただの国民であった。下士官の最下級の伍長になって、初めて判任官という武官に任官する。さらに将校になると高等官となる。

将校・下士官はすべて武官であるが、とくに天皇に仕えて宮中で軍部との取り次ぎをする侍従武官、各国の大・公使館に勤務する駐在武官、他国の戦争を視察する観戦武官など、とくに武官の名をつけた役職もあった。

戦訓12 ― 楽観気運と機密の漏洩

開戦以来、とくに空母「赤城」「加賀」の第一航空戦隊、「蒼龍」「飛龍」の第二航空戦隊の強さは抜群であった。
この二つの戦隊の飛行機搭乗員の戦技は、実戦によってさらに磨きがかけられ、これ以上は望めないほどの熟練ぶりで、まさに神技の域に達した名人ぞろいであった。
したがって彼らの戦力は高く評価され、どのような情勢になっても、天下無敵の一航戦と二航戦が出かけてゆけば、どんな敵でも簡単に処理してしまうだろうと、誇大な期待感と安心感がひろまっていた。
楽観気運は将兵の緊張感を欠落させ、機密保持の心構えを弛緩させた。

ミッドウェー作戦計画は秘中の秘であり、激論のすえ、四月五日に作戦案が正式に採択された。
それから極秘のうちに作戦準備にかかったのだが、なんと、一週間もたたないうちにシンガポールで、次の攻略地はミッドウェーだと流布していたのである。
まして内地では、公然の秘密となっていた。海軍部内だけでなく、巷間にも噂はながれていた。とくに横須賀、呉、佐世保などの軍港地では、飲み屋のおかみさんまで知っていたほどである。
ハワイ作戦のときは、海軍部内のトップクラスの指揮官、要職者だけにしか知らされず、軍艦の次席指揮官である副長にさえ出撃後に知らせたほど機密保持は厳重であった。
それにくらべると、今回は雲泥の差である。ゆるみきった楽観気運が、重大な機密をやすやすと流してしまっていたのである。
それがミッドウェー海戦の敗北の一因になっていたことは言うまでもない。

戦訓11 ― 帷幄の指揮官と実戦指揮官

柱島沖の帷幄の中で作戦を構想する者と、実戦者との心構えの相違…

ミッドウェー島の占領と敵機動部隊の両方にあたれという作戦が気に入らなかった。いやしくも作戦の先陣をうけたまわるのは機動部隊であるから、作戦の仕振りについてはこちらの意見を聞いてもよかろうと、幕僚たちはいきり立ったのである。
それに何よりも全搭乗員が疲労している。

南雲の腹の中には、これまでの南方作戦での指揮と戦果が自信となって、うぬぼれと驕慢心がなくもなかった。それにハワイ作戦での一撃離脱について、山本が批判的な言葉を弄したことも、南雲の耳に入っていた。これがカチンときていた。

さて、ミッドウェーにおける南雲は、あまりにも大胆すぎた。というより、状況判断の不徹底が四空母壊滅の原因になった。
敵機動部隊を発見した南雲機動部隊では、攻撃機の兵装を再度とりかえるという、あまりにも有名なロスをくり返した経緯があるが、問題となるのは、それ以後の南雲の戦闘指揮である。
山口司令官が二航戦(蒼龍、飛龍)の艦爆の兵装転換が早く終わったので、南雲長官に二航戦の艦爆隊だけでも攻撃に発進させるべきだと意見具申した。
ところが、南雲は山口の意見を無視、返事もしなかった。

状況判断は、指揮官の最も重要な責務である。そのためには、いかなる情報も無視してはならないし、部下の進言を軽んじてはならない。繊細な観察と、怜悧な分析力と、チャンスには勇断をもって当たる決断が要求されるものである。そこに指揮官の資質が重大な要素として問われるゆえんがある。

2013年10月28日月曜日

昭和十六年秋までにもし山本の

中央復帰が実現していたら、十二月の開戦は、少なくとも先へ延ばされ、山本が腰抜けとか親英米とか言われて時を稼いでいるうちに、ドイツの頽勢がはっきりして来、日本は世界動乱に処して、おそらくもっと有利な道をたどり得ただろう…

山本(五十六)が、

「永野さんは、天才でもないのに自分で天才だと思っている人だから、一般には受けるだろ」
と言ったのは、この時のことである。
井上成美は、この前年(昭和十五年)、沢本頼雄の次官着任まで、短期間海軍次官代理を勤めたことがあり、大臣の及川古志郎から、
「おい、宮様が総長辞めたいと言われるんだが、どうしよう」
と相談を持ちかけられて、
「辞めてもらったらいいじゃないですか。大体宮様というのはよほどの事がないかぎり、下の者の持って来る案にノーとは言わないようなしつけを受けておられる。この非常の時にそれではなりません。辞めて頂くのが海軍のためでもあり宮様のためでもあります」
と答え、あとを先任順で永野修身にという話には、
「しかし、永野さん不可なかったら、二、三ヶ月ですぐ首にすることですよ」
と進言している。

2013年10月26日土曜日

吉見教班長の乗艦蒼龍沈没の時の話を聞く。

ミッドウェーのたたかいは、あきらかに日本側の負けいくさであったと。此のミッドウェー海戦をやまとして、日本の空母はすでに、赤城、加賀、龍驤、蒼龍、飛龍、祥鳳、みな無く、さいきん特空母冲鷹も沈んだそうである。冲鷹は日本郵船の新田丸の改装であった由。正規の航空母艦として現存しているものは、わずかに翔鶴、瑞鶴の二隻のみで、これからの戦争は日本にとって、よほどの難事となるであろう。かならずしも大本営発表のラヂオの報道のような景気のよいものではあるまい。実戦に出た者がそれは一番よく知っている。

2013年10月20日日曜日

「近衛(文麿)という人は、

ちょっとやってみて、いけなくなれば、すぐ自分はすねて引っこんでしまう。相手と相手を嚙み合せておいて、自分の責任は回避する。三国同盟の問題でも、対米開戦の問題でも、海軍に一と言ノーと言わせさえすれば、自分は楽で、責めはすべて海軍に押しつけられると考えていた。開戦の責任問題で、人が常に挙げるのは東條の名であり、むろんそれに違いはないが、順を追うてこれを見て行けば、其処に到る種を蒔いたのは、みな近衛公であった」
とも、井上(成美)は言っている。

戦争に負けて、近衛(文麿)が死んでのちのこと

ではあるが、学究肌の高木惣吉元少将が、敢えて、
「薄志弱行の近衛公」
と書き、井上成美元大将は、
「あんな、軍人にしたら、大佐どまりほどの頭も無い男で、よく総理大臣が勤まるものだと思った」
と酷評をしている。

井上(成美)が大佐で軍務局第一課長の時、

軍令部長から、軍令部令及び省部互渉規程改正の案が出された事があった。
その内容を簡単に言えば、軍令部の権限を陸軍の参謀本部なみにうんと拡充して、あれも軍令部によこせ、これも軍令部によこせという、海軍大臣に反旗を飜すようなものであった。
時の軍令部長は伏見宮博恭王で、軍令部次長が高橋三吉中将であったが、この要求は、艦隊派の黒幕、加藤寛治大将が、高橋と気脈を通じて、伏見宮を焚きつけて持出したものだと言われている。
井上は、あらゆる資料を集め、海軍の統制保持上かような改正案は認められないと、理路整然とした反対意見をまとめ上げて、強硬にこれに反対した。論理的には井上の所論に逆らう事が出来ないので、軍令部の南雲忠一など、伏見宮邸で園遊会が催された時、酒気を帯びて井上のそばに来、
「井上の馬鹿!貴様なんか殺すのは、何でもないんだぞ。短刀で脇腹をざくッとやれば、貴様なんかそれっきりだ」
と脅迫したりした。
南雲忠一と山本五十六とは、深い相互信頼の上に立ってのちにあの、真珠湾の奇襲を敢行したように一般には思われているかも知れないが、加藤友三郎、山梨、米内、井上の線上に在る山本と、加藤寛治、末次信正に近いすじの南雲とは、立場も考え方も全くちがう提督であった。

高木惣吉の本には、次官時代の山本が、

同じく陸軍次官をしていた東條英機を揶揄した話が書いてある。
東條はその当時から能弁で、何にでも一家言を立てたい方であったらしく、ある日の次官会議で、談たまたま航空の事に及ぶと、滔々と陸軍新鋭機の性能を述べ立てて列席の一同を煙にまいた。東條の話を、一段落すむまで黙って聞いていた山本は、不意に、
「ホホウ。えらいね。君のとこの飛行機も、飛んだか。それはえらい」
と、にこりともせずに言った。「海の荒鷲陸のにわとり」というのは、必ずしも海軍軍人の自慢とばかり言えないところがあって、笑わないのは山本と東條だけで、各省次官連は爆笑したそうである。

「海軍の作戦というのは、

一つの島を取ったら、その島に一週間以内くらいに手早く飛行場を完成して、航空隊を前進させ、それで次の海域の制空権制海権を握るという風に、今後はなって行くと思うが、今の日本の工業力で、そんな事が出来ると思うかね?」
とも言った。
これは、戦争中、ガダルカナル以後反撃に転じた米軍が、日本進攻に用いた正にその方法であった。

山本が聯合艦隊の長官になり、

松元が読売をやめてからのことであるが、彼は、空襲の悲惨についても山本から話を聞かされた。
「日本の都市は、木と紙で出来た燃えやすい都市だからね。陸軍が強がりを言っているけど、戦争になって大規模の空襲をうけたら、とても生易しい事じゃすみやしない。海軍の飛行機が海に落ちて、水の上にガソリンが燃え広がって火の海になるところを見ると、あれは地獄だよ。水の上でも、君、それだよ」
と、山本は心をこめた口調で話したという。

日本軍隊用語集 ― 読法(陸)

読法(どくほう)

軍隊や学校に入る新兵の誓約書のこと。全文で七条あり、上官に礼を尽くすこと、命令に従うこと、武勇を尚ぶことなど「軍人勅諭」と同じような箇条書きとなっているが、昔の兵隊は字の読めないものもいたため、隊長が読んで聞かせ新兵が誓約書に署名することになっていた。

戦訓10 ― 兵力は集中すべし

昭和十七年五月八日に起きた珊瑚海海戦は、日米の空母対空母の最初の激突であった。
ポートモレスビー攻略部隊の船団を擁護する「翔鶴」「瑞鶴」の五航戦と、これを阻止しようとする米軍の「レキシントン」「ヨークタウン」の機動部隊との正面衝突である。
珊瑚海海戦の戦訓は、まず第一に航空母艦兵力の小出しによる失敗である。このことは日米両軍ともにいえる問題である。
米軍は当時、「エンタープライズ」と「ホーネット」が南太平洋で行動していた。この両艦が参加していたなら、「翔鶴」はもとより「瑞鶴」も喪失していたであろう。
また反対に、日本側に「蒼龍」「飛龍」の二航戦がともに投入されていたなら、米空母二隻を完全に撃沈し、ポートモレスビーの攻略は実現していたであろう。
第二の戦訓は、艦隊編成である。
米軍は、空母二隻を中心に置き、その周りを五隻の巡洋艦が囲み、さらにその外周を八隻の駆逐艦がとり巻いて二重の輪型陣を敷いていた。当然のことながらその上空には、警戒の戦闘機群が配されてバリヤーを張っている。
輪型陣による防御壁にはばまれて、味方機の多くが犠牲となっている。
これはもっとも重要な戦訓であったが、当時、日本側では敵空母二隻を撃沈したと信じられており、その”大戦果”の陰にかくれて見落とされていたものである。
日本軍が対空防御に効果のある輪型陣を採用したのは、昭和十九年十月二十四日のシブヤン海における栗田艦隊が最初である。

ミッドウェー作戦での南雲機動部隊の編成をみると、空母四隻に対して、これを護衛する艦艇が戦艦二隻、重巡二隻、軽巡一隻、駆逐艦十二隻の合計十七隻である。
これは珊瑚海海戦での、空母二隻に対して重巡二隻、駆逐艦六隻の護衛艦艇八隻という比率とまったく同じである。これではロクに輪型陣を構成することもできない隻数である。
空母が、敵機の空襲に対してきわめて無力であることは珊瑚海海戦で実証ずみである。もっと厳重な警戒艦の配備を考えるべきであったろう。

さらにまだ問題がある。
当初の予定としては、ポートモレスビー攻略作戦が終了したあと、五航戦をミッドウェー作戦に参加させ、六隻の空母で出撃する予定であった。
ところが五月十七日に内海に帰投した「翔鶴」は、修理を延期されたまま放置された。ドックに入渠したのはなんと、一ヶ月後の六月十六日になってからである。
「瑞鶴」は損傷はなかったが、搭乗員を大量に失っていたので、兵力を回復するため参加が見送られた。
これに対して米軍では、損傷した「ヨークタウン」は修理に三ヶ月かかるとみられていたが、ニミッツ長官の厳命により昼夜兼行の突貫工事を行ない、わずか三日間で修理を終えて五月三十日の朝には装備をととのえ、真珠湾を出港している。
この日米のはなはだしい懸隔をどう見るべきだろう。
ミッドウェー作戦は、珊瑚海海戦の戦訓を無視して実施されたが、その結果を見ると、以前のエラーをふたたびなぞり、悲劇を呼び込んだように見られるのである。

2013年10月19日土曜日

日本軍隊用語集 ― 赤紙(共)

赤紙(あかがみ)

個人の意志に関係なく兵役を国民の義務とする徴兵制は、今では時代おくれの奴隷制度のようにみえるが、十九世紀から二〇世紀にかけての先進国はすべて徴兵制をしいていたので明治の軍隊も自然にそれに習った。
ひとたび戦争が突発すると兵隊を増やす動員がかかり、予備役・補充兵(徴兵検査乙種合格以下)たちに呼び出しがかかる。このときに役場の兵事係が自転車に乗って配って歩く呼出状が赤紙である。
正式には「臨時(充員)召集令状」であり、召集令状とも呼ばれたが、実際は赤色ではなくピンク色であった。
赤紙には「右臨時召集ヲ命セラル 依テ左記日時到着地に参着シ此ノ令状ヲ以テ当該召集事務所ニ届出ヅベシ」と印刷され、日時・場所・部隊名がペン書きされてある。入隊者は晴れ着に着替え、この令状を持って家族や近所の者に見送られて出て行くわけだが、それが一生の見納めとなることもしばしばだった。
当時、郵便ハガキ代は一銭五厘であったため、ハガキで呼び出しがあったような通説もあるが、赤紙はあくまでも役所の兵事係の手によって本人や家族に手渡され受領印をもらう厳格なもので、この令状を受け取った本籍地の家族が転居や旅行先の本人に通知したハガキからの伝説化であろう。
騎兵隊や砲兵隊で軍馬の重要さを教育する下士官が「お前らは一銭五厘でいくらでも集められるが、お馬さまはそうはいかねえ」とハッパをかけるのもこのあたりからである。

戦訓9 ― ミッドウェーの悲劇を予告

昭和十七年四月五日、セイロン島沖海戦で南雲機動部隊の艦爆隊が、英重巡「ドーセットシャー」と「コーンウォール」の二隻を撃沈していたころ、その地点から南西約二〇〇キロの海上を、サー・ジェームス・ソマービル大将指揮のイギリス東洋艦隊が北東寄りの針路で東進していた。
この時、南雲機動部隊は、敵艦隊を発見する絶好のチャンスだったのである。
敵の二重巡が南下中だったのはソマービル艦隊に合同するためであった。この両艦を発見したとき南雲司令部では、敵の行動目的が何であるかを推測すべきであったろう。そして彼らの針路方向に疑念をもって、索敵機の捜索範囲をもう少しひろげていたなら、ソマービル艦隊を発見することができたはずである。
この日の夕刻、敵沈没艦の南西約九〇キロ付近まで「利根」の水偵が索敵に飛んだが、午後五時ころ、「敵を見ず」と報告して帰投している。
じつはこのとき、二重巡沈没地点の南西方、約一八〇キロ付近を、ソマービル艦隊が行動していたのである。
「利根」機はすれすれのところで、敵艦隊を見逃してしまったのであった。せめてあと十五分も飛べば、英東洋艦隊の威容を目視することができたはずである。
午後七時九分には、機動部隊の東方側面海上の哨戒配備についていた駆逐艦から、敵機発見の信号があった。ただちに「飛龍」から零戦六機が迎撃に発進した。
この敵機はソマービル大将が放った索敵機で、複葉の雷撃機フェアリー・ソードフィッシュ二機であった。零戦はこのうちの一機を撃墜したが、他の一機は、太陽方向に遁走、視界外に逃げ去った。
この敵機は明らかに艦上機である。ということは、空母を擁した敵機動部隊が、この方面のどこかにいるということになる。
ところが、南雲部隊の反応は鈍かった。もう夕方でもあり、海上は暮れはじめていたせいもあってか、遁走した敵機の深追いをやめ、新たな索敵機も発進しなかった。
司令部の幕僚たちも、この敵機を深く考えず漫然と見過ごしていた。戦闘詳報にも記録していない。わずかに五航戦(翔鶴、瑞鶴)の戦闘詳報に、
「五日夕刻、敵複葉艦上機らしきもの二機が我に接触したので、付近に敵空母が存在する疑いがある」
と記録されているだけである。
これは一航艦幕僚の重大な怠慢である。敵の艦上機がウロウロ飛び回っている以上、敵機動部隊が待ち伏せしていると判断すべきであろう。
ただちに索敵機を出していたなら、ソマービル艦隊をたちまち発見できたはずである。
このような片々たる情況でも、整理して再検討すれば、索敵の不徹底が大魚を逃していたことに気がつくはずである。
この戦訓の見直しと研究があったなら、後日のミッドウェー海戦で、日本軍は米機動部隊を先に発見していたかもしれないのである。

2013年10月14日月曜日

日本軍隊用語集 ― 動員(共)

動員(どういん)

平和のときの軍隊は予算もかかるので、できるだけ小規模にして人員の定員割れもそのままにしている。
ところが、戦争が近づいたり事変が突発していざ鎌倉となると、軍隊は司令部からの動員下令によって戦時体制に移り大忙しとなる。動員、即戦地への出征というわけではないが、一週間ほどの短い間に兵営も艦隊もパンパンにふくれ上がる。

動員とは軍隊の人・物・金を戦闘向きにつくり上げることといえる。召集令状が家々に舞い込み、補充兵や予備役の兵がぞくぞくと兵営にかけつける。

同じ班内でもお互いに初対面の現役兵予備役兵、兵営の味も知らない未教育の補充兵がその日から生死を共にする戦友となる。

《作成中》南方進攻作戦をちょっと整理

させてください。
実際の戦闘は、結果として言うのは簡単かもしれませんが、その実、非常に敵・味方の状況が複雑に絡んで推移し、その勝敗は戦力は勿論ですが、運にも少なからず左右されるものと思っています。

昭和16年

昭和17年
2月4日          ジャワ沖海戦                    鹿屋空陸攻隊
2月20日        バリ島沖海戦
2月27日        スラバヤ沖海戦
2月27日        バタビア沖海戦                連合軍側呼称、スンダ海峡海戦。バタビアは現ジャカルタ。
4月5日          セイロン島沖海戦

戦訓8 ― ミニ・ミッドウェー

昭和十七年(一九四二)四月五日のインド洋作戦におけるセイロン島沖海戦で、二度にわたる兵装転換にともなう攻撃隊発進の時期遅延があった。『ミニ・ミッドウェー』ともいうべき事件である。しかも状況はウリ二つといってよいほど酷似したものであった。

南雲機動部隊は、セイロン島コロンボの飛行場や港湾施設、船舶、兵舎などを攻撃したが、総指揮官淵田美津雄中佐は、破壊の程度は不十分として、十一時十八分、第二次攻撃の必要性を報告した。

一方、インド洋上の機動部隊では、敵艦隊の出現にそなえて、「赤城」「飛龍」「蒼龍」「瑞鶴」「翔鶴」の五隻の空母の飛行甲板には、魚雷を装着した艦攻六三機、徹甲爆弾を吊下した艦爆六九機が待機していた。

南雲長官は指揮官機からの電報をうけると、十一時五十二分、「第三兵装」即ち、艦攻の魚雷を八〇〇キロ陸用爆弾に、艦爆の徹甲爆弾を二五〇キロ陸用爆弾にする兵装転換を下命した。

この作業中に第一次攻撃隊が帰ってきた。飛行甲板では収容作業がはじまり、これが午後一時二十五分までつづいた。
ところが、収容中の午後一時に索敵に出ていた水偵より、「敵巡洋艦らしきもの二隻見ゆ」との緊急信が入ってきた。

南雲長官は、一時二十三分、作業中の第二次攻撃隊に対し、「敵巡洋艦攻撃の予定、艦攻はできうるかぎり雷撃とす」と指示、「兵装元へ」と下令した。

この後、発見した敵艦が駆逐艦だ、いや重巡だと、情報の混乱があったが、午後二時十八分、
「攻撃隊は一五〇〇(午後三時)発進、敵巡洋艦を攻撃せよ、間に合わざるものは後より行け」
と下令された。

一五〇〇なら再換装の発令から約一時間半後である。艦爆なら間に合うはずだ。事実、三時ころ、「赤城」「蒼龍」「飛龍」から換装を完了した合計五三機の艦爆隊が急速発進した。
しかし、この時点でも、再換装中の艦攻隊は、まだほとんど飛び立てる状況ではなかった。
艦攻全機の魚雷装着が終わったのは、午後四時三十分ころであった。最初の兵装転換命令から、じつに四時間四十分もたっていた。

結果的には、この間に戦況は変化しており、発進した艦爆隊だけで敵重巡「ドーセットシャー」と「コーンウォール」の二隻を撃沈してしまったので、艦攻隊は出動しなくてすんだ。

この時の戦闘では敵からの攻撃がなく、味方の一方的な進撃態勢だったので、コトなきを得たが、万一、敵に先手をとられていたなら、味方の被害は絶大なものであったはずである。

ミッドウェー海戦では、これとまったく同じ状況が現出した。
もし南雲長官や幕僚たちが、兵装転換の所要時間を熟知していたなら、ミッドウェーで同じような命令を出したであろうか。
やはり戦訓無視の姿だったと思われる。

2013年10月13日日曜日

日本軍隊用語集 ― 赤煉瓦(共)

赤煉瓦(あかれんが)

鉄筋コンクリートがまだ未発達の明治時代には、洋風の建築物の大部分は赤い煉瓦を積み重ねて建造された。
官庁も学校も監獄もそうで、三宅坂の参謀本部(現最高裁判所)、その隣りに陸軍省(現国会図書館)、霞ヶ関の海軍省、軍令部(現法務省)も堂々たる赤煉瓦造りであった。
したがって”赤煉瓦”は両省と軍令機関の建物や所在地、さらにはそこに勤務する軍人たちの代名詞でもあった。

軍人として出世するには一生懸命勉強して赤煉瓦勤務になることが夢であり、ここに赤煉瓦への憧れ、現場への蔑視、それへの反発といったさまざまのコンプレックスも生まれていった。

陸軍省が市谷台(旧自衛隊、現防衛省)に移り、他の建物も東京空襲で崩壊したなかで、元海軍省の煉瓦造りは生き残り、赤煉瓦の代名詞を一身に引き受けていた。
戦後も長い間、法務省として役立っていたが、一世紀の風雪に耐えられず、ついに姿を消した。そしてその跡に一個の記念碑だけが海軍の全盛時代を物語っている。

戦訓7 ― 油断の帝都空襲

昭和十七年四月十八日早朝午前六時半ころ、東京の東方七三〇カイリ(約一三五〇キロ)の太平洋上に配備してあった監視艇「第二十三日東丸」(約九〇トンの漁船)が、
「敵航空母艦三隻見ゆ」
との緊急信を発してプツリと消息を断ってしまった。同艇は砲撃により撃沈されたのである。

開戦時に山本五十六連合艦隊司令長官が、日本軍がハワイ攻撃ができるのと同様、米軍も東京攻撃ができるはずだとして、その防衛策として構築した監視バリアーに敵機動部隊がひっかかったのであった。

米軍の艦上機が発進できる攻撃距離は、その性能から、二五〇カイリ(約四六〇キロ)以内とみられていた。
したがって、敵機が東京上空に来襲するのは、明十九日の日の出以降になると判定されたのである。
空母が搭載しているのは艦上機のはずだという常識的先入観が、誤判断の基となったのである。

航空母艦が陸軍の双発爆撃機B25を搭載しているなどとは、日本軍は夢にも考えていなかった。
だれ一人として疑念をはさまなかった。このことは敵戦力を軽視していた証拠であり、常勝気運に有頂天になっていた用兵者たちの緻密さに欠けた戦術眼の濁りであったといわねばならない。

指揮官ハルゼー中将は、ドーリットル中佐の爆撃計画くり上げの決意を採用し、燃料切れのおそれのある中、午前九時ころ、日本の六二三カイリ(約一一五〇キロ)遠方から攻撃隊を発進させた。全機が発進したあと、機動部隊は反転して、真珠湾に向け帰途についた。

午後一時半ころから東京上空にB25が一、二機ずつ、ばらばらに侵入してきた。上空には零戦が待機していたが、敵機が低空で侵入してきたので発見できなかった。
日本軍は完全に意表を衝かれた。空襲警報のサイレンも鳴らず、爆撃されるままで、ついに一機も撃墜することができなかった。
東京、川崎、横浜、横須賀、名古屋、神戸が空襲され、死者四五名、重傷者は一五三名と人的被害が大きかった。物質的損害は少なかったが、市民にあたえた心理的衝撃は大きかった。

勝ちつづけたことから、敵は弱兵であるとの自惚れ心と傲慢心がはびこり、守りを忘れさせ、油断させたのであった。

2013年10月12日土曜日

きけ わだつみのこえ 上原良司陸軍大尉 二十二歳 「所感」

上原良司
一九四五年五月十一日、陸軍特別攻撃隊員として、沖縄嘉手納沖の米機動部隊に突入戦死。
陸軍大尉。二十二歳

所感

空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人が言った事は確かです。操縦桿を採る器械、人格もなく感情もなく、もちろん理性もなく、ただ敵の航空母艦に向って吸いつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬのです。理性をもって考えたなら実に考えられぬ事で、強いて考うれば、彼らが言うごとく自殺者とでも言いましょうか。

言いたい事を言いたいだけ言いました。無礼を御許し下さい。ではこの辺で。
                                                                                                                出撃の前夜記す

きけ わだつみのこえ ――日本戦没学生の手記――

太平洋戦争の真実を追う」が拙ブログの副題である。
然るに、今まできちんと読み学んで来なかった自己の怠慢を真に恥じつつも、やはり避けて通ってはいけないと考えたしだいである。


死者は記憶されることで生きる。時代の推移と状況の変化にもかかわらず、読者に受けとめようとする誠実な意志があるかぎり、戦没学生のどの言葉も、読者の胸に刻まれるにちがいない。


若い戦歿学徒の何人かに、一時でも過激な日本主義的なことや戦争謳歌に近いことを書き綴らせるにいたった酷薄な条件とは、あの極めて愚劣な戦争とあの極めて残忍闇黒な国家組織と軍隊組織とその主要構成員とであったことを思い、これらの痛ましい若干の記録は、追いつめられ、狂乱せしめられた若い魂の叫び声に外ならぬと考えた。

今記したような痛ましい記録を、更に痛ましくしたような言辞を戦前戦中に弄して、若い学徒を煽てあげていた人々が、現に平気で平和を享受していることを思う時、純真なるがままに、煽動の犠牲になり、しかも今は、白骨となっている学徒諸君の切ない痛ましすぎる声は、しばらく伏せたほうがよいとも思ったしだいだ。

しかし、追いつめられた若い魂が、――自然死ではもちろんなく、自殺でもない死、他殺死を自ら求めるように、またこれを「散華」と思うように、訓練され、教育された若い魂が、若い生命のある人間として、また夢多かるべき青年として、また十分な理性を育てられた学徒として、不合理を合理として認め、いやなことをすきなことと思い、不自然を自然と考えねばならぬように強いられ、縛りつけられ、追いこまれた時に、発した叫び声が聞かれるのである。この叫び声は、通読するのに耐えられないくらい悲痛である。それがいかに勇ましい乃至潔い言葉で綴ってあっても、悲痛で暗澹としている。

現在流行している戦争ルポルタージュの一切に見られない貴重なヒューマン・ドキュメントの数々が、本書に見られる。

若くして非業死を求めさせられた学徒諸君のために…

合掌

日本軍隊用語集 ― 鎮守府(海)

鎮守府(ちんじゅふ)

明治のはじめ陸軍に鎮台、海軍にこの鎮守府が設けられた。
鎮は鎮定や鎮火のように災害をしずめ国や村の安定を守る意味があり、軍のラッパ譜にも儀式用の「国の鎮め」という曲がある。

最終的に横須賀・呉・佐世保・舞鶴の四大鎮守府に落ち着いた。略称はヨコチン、クレチン、サチン、マイチンである。
すべての帝国海軍の艦艇と下士官・兵は、この中のどれかの鎮守府に在籍するようになっているから船と軍人の本籍地ともいえよう。

この鎮守府の一ランク下は要港部になり、小規模の海軍基地で大湊、台湾の馬公、朝鮮の鎮海、満州の旅順などにあり、太平洋戦争中には占領したシンガポールにもつくられて「昭南要港部」となった。

鎮守府のボスは天皇が直接に任命した海軍中将または大将で、二・二六事件のときのような戒厳令下には独断で兵力を動かす権限ももち、艦隊司令官またはそれ以上の要職であった。重要なポストであるから、後に海軍大臣や連合艦隊司令長官になったエリートはたいていこのポストを通過している。

戦訓6 ― 人心掌握

勝つための条件で大切なものに、部下の将兵をいかに掌握するかという、指揮官の人間的な器量の問題がある。

艦艇の場合、全乗員の上下の心が一致するのは、やはり駆逐艦や潜水艦、海防艦、駆潜艇といった小艦艇の場合が多い。
駆逐艦の乗員は約一五〇人から二三〇人。それが狭い艦内で肩をすり寄せて同居している。ここでは階級の上下は問題ではない。むしろ親兄弟のような人間関係ができあがっていた。
一隻の駆逐艦は、艦長を親分とした”次郎長一家”である。艦長と乗員の人間関係がこまやかで信頼関係が深くなければ、総員が一丸となって敵にあたる心意気は生まれてこない。

艦長の、人の心を己れの心とする思いやりが、たくまざる部下掌握の要諦になる。
艦長以下の一致団結した乗員たちの結束力が、劣勢を勝利に導く。
階級の垣をこえて部下の心の中にストレートに飛び込んで来る艦長の人柄に乗員たちの顔が輝く。

死ぬも生きるも艦長の胸三寸に託されている船乗りたちだからである。

日本軍隊用語集 ― 連隊区(陸)

連隊区(れんたいく)

師管と一対をなす用語で、師団の下に連隊があるように師団管区の下に連隊区がある。
明治の建軍以来、日本陸海軍は大部分を徴兵制度で一部を志願制で兵員をまかなっていたが、この師団管区・連隊区の目的は全国から徴兵するためのメカニズムであった。

具体的にいえば、東京都日本橋区(現中央区)に本籍をもつ青年は満二〇歳になると、日本のどこに住んでいても本郷連隊区司令官から通知が届き、徴兵検査を命ぜられて指定の検査場に行く。戦争になると突然、連隊区司令官の名で舞い込んでくる召集令状赤紙)で歩兵第一連隊に入隊し、同連隊長の指揮下に入るわけだ。

人生五〇年の時代に、日本の男子は満四〇歳の国民兵役の義務が終わるまでは、自分の出生地の連隊区から逃げられなかった。

戦訓5 ― 兵は拙速を尊ぶ

『孫子』の作戦篇の一節。
「兵聞拙速未観巧之久也」
兵には拙速を聞くも、いまだ巧久をみざるなり。
ここでの”兵”は戦争を意味する。戦争になったら、たとえ戦い方が拙劣であっても、一日も早く切り上げて終止符を打ったほうがよい。戦い方が巧妙でも、長期戦に持ちこんで勝ちを得たという例はみたことがない。

戦闘に勝つための戦法として、日本軍は速戦即決を標語に用いたほどだが、これはむしろ中国の晋の正史である『晋書』の一節によっている。
「巧遅不如拙速」
巧遅は拙速に如かず。
つまり、巧みで遅いよりは下手でも速いほうが勝ちをしめる、との意味である。

作戦としての拙速戦法は、当初から計画しておくというものではない。これはあくまで咄嗟の戦術であり、いわば窮余の一策として指揮官のインスピレーションから発生するものである。
これには指揮官の絶妙な決断が必要であり、敵の虚をつくタイミングがぴたりと合っていなければならない。

一方で、拙速戦法は、成功すれば大きな戦果が得られるが、万一、タイミングを間違えると大損害をこうむるおそれがあることも心得ておかなければならない。

2013年10月8日火曜日

日本軍隊用語集 ― 師管(陸)

師管(しかん)

師団管区の略称。
まず師団を説明しよう。
師団という軍の単位は連隊小隊とともに今も昔も変わらない用語で、日本陸軍では戦術の最小単位が中隊、戦略の最小単位が師団で、この間に旅団―連隊―大隊があり、中隊はさらに小隊・分隊と細分される。(自衛隊には旅団は残っていない)
いざ戦争となると複数の師団で、複数の軍で方面軍、複数の方面軍で総軍となる。

このように師団は最小の戦略単位であると同時に、最大の戦術単位として戦場に出動するわけだが、平時にはそれぞれ定められた所に司令部を置き、周囲に配下の部隊を駐屯させた。
この定められた区域が師団管区「師管」である。

戦訓4 ― 待ちぼうけの潜水艦隊

ハワイ作戦では、連合艦隊はまず真っ先に潜水艦部隊を出撃させていた。
いよいよ開戦となり、先端が開かれたあとの真珠湾付近は、駆潜艇や駆逐艦によるじつに厳重な警戒が敷かれ、港外に潜伏’していた日本潜水艦はうっかり頭も出せないほどであった。
そこで昼間は深度三〇メートルから五〇メートルのところに潜航、または海底に着底していて、水中聴音機で敵艦のスクリュー音をさぐることにした。
ところが、いくら待機していても敵艦のスクリュー音はまったく聞こえなかった。
てっきり敵艦は付近海面を通っていないのだろうと考えていたのだが、事実は、潜伏している日本潜水艦の頭上を堂々と、しかもひっきりなしに水上艦艇が通過していたのである。
そのなかには、日本軍が血眼になってさがしていた航空母艦が、毎日のように、真珠湾を出たり入ったりしていたのである。
それなのに、なぜスクリュー音が海中の潜水艦に聞こえなかったのか?

一般に真夏は海水の表層温度が高くなって、下層との間に水温差が生じる。この温度差の境い目で音が屈折して垂直に下方に向かう。だから温度の低い下層域に潜んでいるとスクリュー音は近い距離(一〇〇〇メートル)でもまったく聞こえない。
また、冬は逆に表層温度が下がるので、浅い冷水層にいると、遠い距離(一〇カイリ以上)でも、音は水平に伝わって聞こえるが、逆に深度を深くとって温度の高い温水層に潜んでいると、音は温水層のところで上に反射してしまうので、敵艦が頭の上を通っても、音はまったく聞こえない。
日本の近海では温度差がそれほど激しくないせいか、訓練時に音を捕捉できなかったという例はなかった。ところが、実際には訓練方法に問題があったのである。
平時訓練と実戦とは、まったく違った状況になることを教えてくれる教訓である。

日本軍隊用語集 ― 鎮台(陸)

鎮台(ちんだい)

維新戦争が官軍の大勝利で終ったあと、その主力となった薩長土肥の藩兵部隊は、さっさとそれぞれの国もとに帰ってしまった。
新政府がまずやらなければならなかったのが、その治安の空白を埋める軍事力の創設であった。
その根拠地となったのが新たに創設された鎮台であり、その司令部は維新後もとり壊さずに残した各地の城の中に置いた。
明治五(一八七二)年に全国的に徴兵令が発せられると、鎮台の数も東京・大阪・鎮西(小倉)・東北(仙台)と増えた。
明治八年から二一年にかけて、しだいに増強整備して七軍管区六鎮台制となった。これがのちにつづく軍管区の師団となる。
陸軍のこの鎮台も、海軍の鎮守府も文字どおりその任務は国を鎮める治安軍である。
やがて兵力増強とともに戦略単位の師団が生まれて鎮台の名は消滅した。

2013年10月7日月曜日

戦訓3 ― 早期撤退した機動部隊

真珠湾奇襲作戦は成功した。
しかし、成功した第一回空襲に次ぐ第二回空襲は実施されなかった。
行方不明の敵空母が、どこにいるかわからないし、敵大型機に発見されて通報されると、いつどこから敵の母艦機に奇襲攻撃をかけられないともかぎらない。
これが南雲司令部の考えた避退理由である。
南雲司令部では、母艦を失うことを極度に恐れていた。
しかし、自軍の都合を優先するあまり、討ちもらした海軍工廠や燃料タンクなど、攻撃できるものをみすみす見逃すということは戦術として下策である。ことに攻撃地がその後に復活したとき、強力な敵地になることを考えると、味方の損害を押してでも、徹底的に破壊しておかなければ、あとからより以上のシッペ返しを受けてしまうことになる。

2013年10月6日日曜日

日本軍隊用語集 ― 大本営(共)

大本営(だいほんえい)

大日本帝国憲法の第十一条には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とあり、日本軍の最高司令官であり絶対の命令指揮権があって政府ですらこれに介入できない。これが独特の統帥権である。

形式的には天皇の名による作戦命令の下令であるが、天皇がいちいち作戦を考えたわけではない。陸軍は参謀本部、海軍は軍令部の作戦参謀がつくった案を参謀総長や軍令部総長が承認し、宮中の侍従武官の手によって天皇の決裁をあおぐ。

ところが、いざ戦争に突入すると陸海軍が別々に動いていては、それこそいくさにならないので、戦時に限って陸の参謀本部と海の軍令部とを一本化した。この有機体が大本営であり、日清戦争直前の一八九三(明治二六)年に設けられたのが最初である。

大本営が設けられて一本化されると、陸軍参謀本部と海軍軍令部はそれぞれ大本営陸軍部と海軍部に名前が変わり、参謀たちは大本営参謀となる。そしてここから発令される命令はそれぞれ大陸命大海令と略して呼ばれた絶対的な戦略命令であった。

戦訓2 ― 指揮官の適材適所(南雲忠一)

太平洋戦争における日本海軍をみても、配置された指揮官が適材適所であったかどうかで、戦局を大きく左右した例がいくつかある。
ハワイ奇襲作戦の陣頭指揮をとった第一航空艦隊司令長官南雲忠一中将。

ハワイを目ざして進撃中の旗艦「赤城」の艦橋で南雲は、参謀長の草鹿龍之介少将にこう言った。
「参謀長、君はどう思うかね。僕はエライことを引き受けてしまった。僕が、もう少し気を強くして、きっぱり断わればよかったと思うが。いったい出るには出たが、うまくいくだろうかねえ」
いかにも不安げな顔色である。
「大丈夫ですよ。かならずうまくいきますよ」
草鹿はこともなげに言った。
「そうかねえ、君は楽天家だね。羨ましいよ」

南雲の性格を見通していた山本長官は、機動部隊の指揮官には小沢治三郎中将をあてたいものだと、側近の宇垣纏少将にひそかにもらしていた。
しかし、人事は海軍省の所管である。軍令承行令という人事・階級の序列を決める海軍法規からもできない相談である。

第一撃の攻撃隊二群は、真珠湾の敵艦艇や航空基地に大打撃をあたえた。艦隊では当然、第二撃の攻撃命令があるものと考えていたが、それがなかった。

「長門」の連合艦隊司令部では、南雲が第二撃を実施しないことに激高した。幕僚たちは第二撃を実施させるか、敵空母を求めて進撃させるか、山本長官に命令電を出すように迫ったのである。
「もちろん、それをやれば満点だ。僕も希望するが、被害状況が少しも分からないから、ここは機動部隊指揮官に判断を任せよう」
といって命令電は打たせなかった。このあと山本長官は、
「南雲はやらんだろうなあ」
と、そばの幕僚にもらしている。山本の推測は、まさに的中したのであった。

2013年10月5日土曜日

日本軍隊用語集 ― 皇軍(陸)

日本軍隊用語集

死語発掘
歴史の事実を伝えるため、埋没させてはならない、戦争を語る言葉たち。


皇軍(こうぐん)

天皇直属の軍隊のこと。
戦況を報道する新聞やラジオで「わが軍は」「わが帝国陸軍は」「わが日本軍は」など、まちまちの表現がすべて皇軍と統一されたのは、一九三七(昭和一二)年に始まった日中戦争のころからであった。

戦訓1 ― 見逃した石油タンク

真珠湾奇襲攻撃。
日本軍には第一目標を戦艦や空母などの大艦にむけて、それ以外には目もくれないという傾向があった。とくに輸送船や地上施設など、間接戦力を無視する傾向が強い。
血気にはやる攻撃隊は、とくに指示されないかぎり、手柄となる敵艦攻撃にのみ向かっていくのは当然のことである。
日本軍が見逃した燃料タンクは、米軍の反撃を支える重要な要素となった。この燃料がなかったならば、米空母は太平洋上を一歩も機動できず、その後の珊瑚海海戦もミッドウェー海戦も起きなかったか、あるいは日米両軍の戦闘方法が大きくサマがわりしたものになったであろう。

坂井の右目は、ガダルカナル島上空での

負傷で視力を失っている。
昭和十七年八月七日、敵SBD艦爆八機編隊を戦闘機と誤認し、後上方から攻撃をかけようとして後部旋回機銃に撃たれ、頭部に重傷を負ったのだ。
瀕死の重傷を負い、出血多量で半ば失神しながら奇跡的にラバウル基地に帰りついた。

SBDドーントレス

2013年10月4日金曜日

昭和十八年、ガダルカナル島をめぐる

航空戦では、部下たちの最期を幾度も眼のあたりにした。敵弾を浴びソロモンの海に飛沫を上げて突っ込んだ艦上爆撃機や、襲いかかる敵戦闘機から艦爆を守ろうと、自ら盾になって弾丸を受け、空中で火の玉となって爆発した零戦の姿を思い出すたび、あれが犬死にだというのか、と、やり切れない思いに涙が溢れてきた。

2013年10月2日水曜日

「お前たちの突入を成功させる

ため、直掩機まで未帰還になっているというのに、爆弾を捨てて帰ってくるとは何事だ!」
鈴木はめずらしく声を荒らげて橋爪を叱った。

2013年9月29日日曜日

敵機の主翼前縁いっぱいに十二・七ミリ機銃六挺の閃光が

走ったかと思うと、翼の下に機銃弾の薬莢が、まるですだれのようにザーッと落ちるのが見える。同口径の機銃を六挺も備えたF6Fの射撃の威力は、まさに「弾幕」と呼べるほどすさまじかった。

グラマンF6F ヘルキャット

三月二十一日、敵機動部隊を求めて、

鹿屋基地から七二一空(神雷部隊)の一式陸攻十八機が、零戦三十機に援護されて出撃した。陸攻のうち十五機は、機体の腹に人間爆弾「桜花」を抱いていて、これが「桜花」の初出撃だった。
陸攻隊指揮官の野中五郎少佐は隊員たちに、
「戦わんかな最後の血の一滴まで、太平洋を血の海たらしめよ」
と訓示すると、乗機に向かって歩いていった。
機首に一・二トンもの爆薬を仕込んだ桜花を抱いた陸攻は、見るからに重そうにゆっくりと上昇していった。
「飛ぶのがやっとじゃないか。これで敵艦隊まで辿りつけるのか」

野中隊は、途中で待ち構えた敵戦闘機に陸攻全機が撃墜され、攻撃は失敗に終った。
野中が出撃前夜に、
「ろくに戦闘機もない状況ではまず成功しないよ。特攻なんてぶっ潰してくれ」
という言葉を遺していたことを進藤が知るのは、戦後になってからのことである。

「話せばわかる」「問答無用」

昭和七年五月十五日、五・一五事件。
内閣および重臣――例の「君側の奸」――はけしからん、あれを倒して暗雲を吹き飛ばし、もっとさわやかな日本をつくるべきだ、と犬養首相暗殺を決行。
海軍士官、三上卓、黒岩勇、山岸宏、村山恪之、さらに陸軍士官学校の後藤映範、篠原市之助らで、靖国神社に集合し、午後五時半ごろ首相官邸に乗り込んで行き…

犬養さんが出てきて、
「なんだそういうことか、話せばわかるじゃないか」
と言った時に、
「問答無用」、ズドン。

満州事変

九月十九日午前一時過ぎ、関東軍は主力の奉天集中と、満鉄沿線の要地攻略・占領の命令を発し、軍司令部を奉天に進出させた。さらに、朝鮮軍に増援を要請した。朝鮮軍の増援は、本国の政府と天皇の反対によりストップがかけられたが、これに対して関東軍は再び謀略によって吉林に不穏な状態をつくり出し、居留民保護を名目として吉林に出兵した。吉林出兵によって満州南部が手薄となり、その危急を救うために朝鮮軍の増援を必要とさせたのである。
こうして二十一日午後、朝鮮軍は天皇の裁可も得ぬまま独断で越境したが、ついに政府も軍中央もこれを追認してしまった。
柳条湖事件は石原らの目論見どおり拡大し、満州事変となったのである。

独断で朝鮮軍を出動させ、「越境将軍」と呼ばれた林銑十郎

柳条湖事件

昭和六年(一九三一)九月十八日午後十時過ぎ、奉天の北方約八キロの柳条湖で満鉄の線路が爆破された。
中国軍の仕業とされた事件は、関東軍高級参謀板垣征四郎大佐、作戦参謀石原莞爾中佐らの謀略によるものであった。
柳条湖の線路爆破の後、付近で夜間演習中であった関東軍独立守備隊は中国軍から射撃されたとして、張学良軍の兵営、北大営を攻撃、占領した。

 板垣征四郎

石原莞爾

中村大尉事件

参謀本部作戦課員の中村震太郎大尉は対ソ作戦に備えた兵要地誌作成のため、井杉延太郎予備役曹長とともに変装して洮南地方を偵察旅行中であったが、現地の屯墾軍に捕まり、昭和六年六月二十七日殺害された。日本側が殺害の事実をキャッチしたのは七月中旬である。
石原莞爾らはこの事件を、満蒙問題解決のために実力を行使する好機ととらえた。だが、それは本国の政府も陸軍首脳も受け容れるところではなかった。

中村震太郎(左)と井杉延太郎(右)

万宝山事件

吉林省長春近辺の一小村、万宝山に借地して入植した朝鮮人農民が水田耕作のために灌漑水路をつくったところ、それが中国人の所有地を横切っていたため、両者の間に争いが起きた。中国人側は警察に訴え、朝鮮人側は日本領事館に応援を求め、ついに昭和六年(一九三一)七月二日、日本領事館警察が発砲する騒ぎとなった。この事件で死者は出なかったが、中国人が朝鮮人農民を襲撃し多くの犠牲者を出したと誇大に報道されたため、朝鮮では反中暴動が発生した。また、朝鮮での反中暴動を日本官憲による策謀と見て、反日の機運が高まった。

軍需資源を米英から輸入

することを前提にしていれば、それに制約され、提携関係も選択の余地なく米英側とならざるをえない。そのように提携関係においてあらかじめ選択を限定されれば、「国防自主権」、国防上の方針決定のフリーハンドを確保することができない。いわば国防的観点からみて国策決定の自主独立性が失われる。この点が、宇垣に永田が最も距離を感じ、反発していたところだった。

満州某重大事件

昭和三年(一九二八)、六月四日早朝、北京から奉天に戻る途中の張作霖の乗った特別列車が、京奉線と満鉄が交差する陸橋上で爆破された。瀕死の重傷を負った張作霖は二日後に死去した。張作霖爆殺は、関東軍高級参謀河本大作大佐の計画によるもので、独立守備隊中隊長の東宮鉄男大尉が現場の指揮をとった。
昭和は"陰謀"と"魔法の杖"で開幕した。

2013年9月23日月曜日

女交換手真岡に散る

終戦の年の八月二十日、樺太の真岡郵便局で、押し寄せるソ連兵を前に、職務を遂行して散った九人の電話交換手の悲劇…
八月二十日の攻撃においては、日本軍の迎撃は、瞬時のうちに沈黙してしまった。あとは、無残な邦人虐殺が展開されていった。武器を持たない邦人は、ただ逃げるしかなかった。ソ連兵は、彼らの背へ、情け容赦なく、自動小銃の弾丸を食い込ませた。防空壕でふるえている者には、手榴弾が投げ込まれた。

九人の最期
「ソ連の兵隊が、続々と、こちらに上がって来ています。もう、みんな、交換台で倒れています。私も、だんだん目がみえなくなってきました。ながい間、お世話になりました。さようなら」
しっかり者だった伊藤千枝は、隣の泊居の局に、真岡の惨状を報告したあと、こういって通話を切ったという。
青酸カリによる自決であった。

三島由紀夫は自殺(1970年11月25日)

の1カ月前、江田島(広島)の海上自衛隊第一術科学校教育参考館で一通の遺書を読み、声をあげて泣いたという。その名文の主は第8桜花攻撃隊陸攻隊指揮官として出撃(戦死)した古谷真二中尉である。

当時日本軍が歩兵に持たせていた対戦車地雷

には二種あった。一つは戦車の機関部または横腹に吸いつかせる「破甲爆雷」で、いわゆる「アンパン」である。
もう一つは、棒の先に爆薬を装着した「棒地雷」で、それを敵戦車のカタピラにさし込む。カタピラが廻って、それを敷くと爆発する。

ドラグの水際陣地には日本の二十聯隊第三大隊

の兵士が置き去りにされていた。
敵が上陸を始めた時、初年兵たちは、不意に銃を捨てろと命令されて驚いた。帯剣もはずし、ガソリンを詰めたビール瓶(ずんぐりした形の四分の一リットル瓶である)を一つ右手に持ったままの軽装で、戦車に肉薄攻撃をせよというのである。

2013年9月22日日曜日

M4戦車、通称シャーマン戦車は

ヨーロッパ戦線では中型戦車だったが、レイテの日本兵には化物としか思えなかった。

2013年9月16日月曜日

編隊を組んで飛んでいたところ、

進藤の二番機、八並信孝一飛曹機が、進藤機に覆いかぶさるような妙な動きをする。バンクを振って定位置に戻るよう促しても、八並機は離れようとしない。八並は二十二歳、ガッチリとした体格の折り目正しい男で、腕も視力もよく、進藤が目をとめて列機に指名した搭乗員である。
ラバウルに帰ってすぐに、進藤は八並を呼びつけた。
「お前、どうして編隊を崩してあんな飛びかたをしたか」
すると八並は、
「敵機が上にいました」
という。進藤は驚いた。
「戦闘機か?」
「はい、P‐38でした。一機でしたが、優位の態勢から奇襲の機会を窺っているもののようでした。隊長にバンクで知らせましたが、気づいてもらえませんので、敵が撃ってきたら盾になるつもりで上についていました。ニューブリテン島が見える頃、敵機は諦めたのか引き返して行きました」
進藤は、穴があったら入りたい気持ちになった、と同時に、身を挺してでも指揮官機を守ろうとする八並の気魄と責任感に胸をうたれた。

「進藤大尉、ただいまから飛行隊長

として指揮をとる。諸君は八月以来、前線にあって奮闘し、まことにご苦労である。緒戦の華々しい戦闘に比べ、こんにちでは毎日が苦しい戦いの連続になっている。しかし、ここで持ちこたえなくては敵はさらに勢いを増してくるだろう。海軍戦闘機隊のモットーは編隊協同空戦だ。しかも搭乗員が戦果を挙げる陰には、整備員や兵器員といった裏方の努力が不可欠である。けっして一人の手柄を立てようなどとは思わず、より長く、より強く、一致団結して戦い抜くように」

2013年9月15日日曜日

二十年の春、

その頃の特攻機には戦果確認機はほとんどつけられませんでした。
フィリピンの時には必ず戦果確認機が出ていましたが、沖縄戦の頃には、そんなものを出していたら戦果確認機も撃墜されてしまうということで、まったく出されませんでした。
敷島隊の時に大西長官が言ったといわれる、お前たちの戦果は必ず上聞に達するようにするから安心しろという言葉は、とっくに反故にされていたのです。

2013年9月14日土曜日

今、思い返してもあのゼロには

悪魔が乗っていたと思う。
ゼロは低空ギリギリにやって来た。ほとんど海面すれすれだった。しかも空母の真後ろからだ。俺たちは近接信管付きの砲を撃ちまくったが、海面が電波を反射して、目標に到達する前に爆発してしまう。
ゼロが四〇〇〇ヤードまで近づいた時、四〇ミリ機銃が一斉に火を噴いた。たった一機の飛行機に何千発もの機銃弾が撃ち込まれるのだ。
ついにゼロが火を噴くのが見えた。
黒煙を吐いたゼロはいきなり急上昇した。機銃員たちは慌ててその後を追ったが、鋭い動きについて行けなかった。
ゼロは燃えながら上昇し、機体を捻って背面になった。そして空母上空に達すると、背面のまま、逆落としに落ちて来た。俺たちはなす術もなく、悪魔が上空から降りて来るのを見ていた。あんな急降下は一度も見たことがない。いや、燃える飛行機にあんな動きが出来るのか。
ゼロはまさに直角に落ちて来た。命中の瞬間、俺は目をつむった。

「今日の桜花の搭乗員に、

筑波での教え子がいた。出撃前に、彼は俺の顔を見て、××教官が援護して下さるなら安心ですと言った。しかし俺の目の前で、彼を乗せた一式陸攻は火を吐いて墜ちていった。中攻の搭乗員たちは俺に敬礼しながら墜ちていった」
「仕方がないと思います」
「仕方ないだと!
何人死んだと思ってる!直掩機は特攻機を守るのが役目だ。たとえ自分が墜とされてもだ」

小澤艦隊から岩井勉少尉

なども比島に飛んで来て、あわや特攻に出されるところだったと聞いている。しかし、二十年三月から始まった沖縄特攻では熟練搭乗員は出さなくなっていた。熟練搭乗員は教員や本土防衛に必要だったからだ。

熟練搭乗員が特攻に行かされることは稀でした。

十九年の比島方面では熟練搭乗員も何人か特攻を命じられていますが、翌二十年の沖縄戦になると、そうしたことはなくなりました。

進藤三郎少佐も立派な戦闘機隊指揮官だった。

進藤は零戦が中国大陸で華々しいデビューを飾った時の十三機の零戦の指揮官だった人だ。その後、ラバウルで戦い、マリアナやレイテを転戦し、終戦の年は鹿児島の二〇三航空隊の飛行長になっていたが、上層部の「全機特攻」の掛け声の中、一機の特攻機も出さなかった。

2013年9月12日木曜日

特攻に断固反対した美濃部正少佐

美濃部少佐は二十年の二月に、指揮官八十人余が参集して木更津で開かれた連合艦隊の沖縄方面作戦会議の席上、首席参謀から告げられた「全力特攻」の方針に真っ向から反対した男だ。
軍人は「上官の命令は朕の命令」と刷り込まれている。抗命罪で軍法会議にかけられれば死刑すらあり得る。だが美濃部少佐は死を賭して敢然と反対した。それどころか色をなして怒鳴りつけた上官に対して「ここにおられる皆さんに自ら突入出来る方がいるのか」と言い返した。そして「練習機まで特攻に出すのは言語道断。嘘だと思うなら、練習機に乗って攻撃してみられるとよい。私が全部零戦で叩き墜としてみせる」と言った。

「敷島の大和心を人とはば

朝日ににほふ山桜花」

本当は久納中尉こそが特攻第一号

ですが、その栄誉は彼に与えられませんでした。戦果確認が出来なかったこともありますが、もう一つの大きな理由は、久納中尉が予備学生出身の士官だったからです。海軍としては「特攻第一号」の栄誉はやはり海軍兵学校出身の士官にしたいということで、関大尉が第一号として発表されたのです。

2013年9月11日水曜日

関大尉の敷島隊が突入したのは

十月二十五日ですが、久納中尉の大和隊が突入したのは二十一日です。この日、大和隊も敷島隊も接敵出来ず、全機基地に引き返したのですが、久納中尉だけは帰還することなく、単機で敵を追い求め、ついに戻らなかったのです。

2013年9月10日火曜日

最初の特攻隊はレイテにおける関大尉の敷島隊

というのが一般に流布されていることですが、実は本当の特攻「ゼロ号」の男は同じレイテの大和隊の久納好孚中尉です。

特攻隊の英霊に曰す善く戦ひたり深謝す

  遺書

特攻隊の英霊に曰す
善く戦ひたり深謝す
最後の勝利を信じつゝ肉
彈として散華せり然れ

共其の信念は遂に達
成し得ざるに至れり
吾死を以て旧部下の
英霊と其の遺族に謝せ
んとす