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2013年10月28日月曜日

昭和十六年秋までにもし山本の

中央復帰が実現していたら、十二月の開戦は、少なくとも先へ延ばされ、山本が腰抜けとか親英米とか言われて時を稼いでいるうちに、ドイツの頽勢がはっきりして来、日本は世界動乱に処して、おそらくもっと有利な道をたどり得ただろう…

山本(五十六)が、

「永野さんは、天才でもないのに自分で天才だと思っている人だから、一般には受けるだろ」
と言ったのは、この時のことである。
井上成美は、この前年(昭和十五年)、沢本頼雄の次官着任まで、短期間海軍次官代理を勤めたことがあり、大臣の及川古志郎から、
「おい、宮様が総長辞めたいと言われるんだが、どうしよう」
と相談を持ちかけられて、
「辞めてもらったらいいじゃないですか。大体宮様というのはよほどの事がないかぎり、下の者の持って来る案にノーとは言わないようなしつけを受けておられる。この非常の時にそれではなりません。辞めて頂くのが海軍のためでもあり宮様のためでもあります」
と答え、あとを先任順で永野修身にという話には、
「しかし、永野さん不可なかったら、二、三ヶ月ですぐ首にすることですよ」
と進言している。

2013年10月26日土曜日

吉見教班長の乗艦蒼龍沈没の時の話を聞く。

ミッドウェーのたたかいは、あきらかに日本側の負けいくさであったと。此のミッドウェー海戦をやまとして、日本の空母はすでに、赤城、加賀、龍驤、蒼龍、飛龍、祥鳳、みな無く、さいきん特空母冲鷹も沈んだそうである。冲鷹は日本郵船の新田丸の改装であった由。正規の航空母艦として現存しているものは、わずかに翔鶴、瑞鶴の二隻のみで、これからの戦争は日本にとって、よほどの難事となるであろう。かならずしも大本営発表のラヂオの報道のような景気のよいものではあるまい。実戦に出た者がそれは一番よく知っている。

2013年10月20日日曜日

「近衛(文麿)という人は、

ちょっとやってみて、いけなくなれば、すぐ自分はすねて引っこんでしまう。相手と相手を嚙み合せておいて、自分の責任は回避する。三国同盟の問題でも、対米開戦の問題でも、海軍に一と言ノーと言わせさえすれば、自分は楽で、責めはすべて海軍に押しつけられると考えていた。開戦の責任問題で、人が常に挙げるのは東條の名であり、むろんそれに違いはないが、順を追うてこれを見て行けば、其処に到る種を蒔いたのは、みな近衛公であった」
とも、井上(成美)は言っている。

戦争に負けて、近衛(文麿)が死んでのちのこと

ではあるが、学究肌の高木惣吉元少将が、敢えて、
「薄志弱行の近衛公」
と書き、井上成美元大将は、
「あんな、軍人にしたら、大佐どまりほどの頭も無い男で、よく総理大臣が勤まるものだと思った」
と酷評をしている。

井上(成美)が大佐で軍務局第一課長の時、

軍令部長から、軍令部令及び省部互渉規程改正の案が出された事があった。
その内容を簡単に言えば、軍令部の権限を陸軍の参謀本部なみにうんと拡充して、あれも軍令部によこせ、これも軍令部によこせという、海軍大臣に反旗を飜すようなものであった。
時の軍令部長は伏見宮博恭王で、軍令部次長が高橋三吉中将であったが、この要求は、艦隊派の黒幕、加藤寛治大将が、高橋と気脈を通じて、伏見宮を焚きつけて持出したものだと言われている。
井上は、あらゆる資料を集め、海軍の統制保持上かような改正案は認められないと、理路整然とした反対意見をまとめ上げて、強硬にこれに反対した。論理的には井上の所論に逆らう事が出来ないので、軍令部の南雲忠一など、伏見宮邸で園遊会が催された時、酒気を帯びて井上のそばに来、
「井上の馬鹿!貴様なんか殺すのは、何でもないんだぞ。短刀で脇腹をざくッとやれば、貴様なんかそれっきりだ」
と脅迫したりした。
南雲忠一と山本五十六とは、深い相互信頼の上に立ってのちにあの、真珠湾の奇襲を敢行したように一般には思われているかも知れないが、加藤友三郎、山梨、米内、井上の線上に在る山本と、加藤寛治、末次信正に近いすじの南雲とは、立場も考え方も全くちがう提督であった。

高木惣吉の本には、次官時代の山本が、

同じく陸軍次官をしていた東條英機を揶揄した話が書いてある。
東條はその当時から能弁で、何にでも一家言を立てたい方であったらしく、ある日の次官会議で、談たまたま航空の事に及ぶと、滔々と陸軍新鋭機の性能を述べ立てて列席の一同を煙にまいた。東條の話を、一段落すむまで黙って聞いていた山本は、不意に、
「ホホウ。えらいね。君のとこの飛行機も、飛んだか。それはえらい」
と、にこりともせずに言った。「海の荒鷲陸のにわとり」というのは、必ずしも海軍軍人の自慢とばかり言えないところがあって、笑わないのは山本と東條だけで、各省次官連は爆笑したそうである。

「海軍の作戦というのは、

一つの島を取ったら、その島に一週間以内くらいに手早く飛行場を完成して、航空隊を前進させ、それで次の海域の制空権制海権を握るという風に、今後はなって行くと思うが、今の日本の工業力で、そんな事が出来ると思うかね?」
とも言った。
これは、戦争中、ガダルカナル以後反撃に転じた米軍が、日本進攻に用いた正にその方法であった。

山本が聯合艦隊の長官になり、

松元が読売をやめてからのことであるが、彼は、空襲の悲惨についても山本から話を聞かされた。
「日本の都市は、木と紙で出来た燃えやすい都市だからね。陸軍が強がりを言っているけど、戦争になって大規模の空襲をうけたら、とても生易しい事じゃすみやしない。海軍の飛行機が海に落ちて、水の上にガソリンが燃え広がって火の海になるところを見ると、あれは地獄だよ。水の上でも、君、それだよ」
と、山本は心をこめた口調で話したという。

日本軍隊用語集 ― 読法(陸)

読法(どくほう)

軍隊や学校に入る新兵の誓約書のこと。全文で七条あり、上官に礼を尽くすこと、命令に従うこと、武勇を尚ぶことなど「軍人勅諭」と同じような箇条書きとなっているが、昔の兵隊は字の読めないものもいたため、隊長が読んで聞かせ新兵が誓約書に署名することになっていた。

戦訓10 ― 兵力は集中すべし

昭和十七年五月八日に起きた珊瑚海海戦は、日米の空母対空母の最初の激突であった。
ポートモレスビー攻略部隊の船団を擁護する「翔鶴」「瑞鶴」の五航戦と、これを阻止しようとする米軍の「レキシントン」「ヨークタウン」の機動部隊との正面衝突である。
珊瑚海海戦の戦訓は、まず第一に航空母艦兵力の小出しによる失敗である。このことは日米両軍ともにいえる問題である。
米軍は当時、「エンタープライズ」と「ホーネット」が南太平洋で行動していた。この両艦が参加していたなら、「翔鶴」はもとより「瑞鶴」も喪失していたであろう。
また反対に、日本側に「蒼龍」「飛龍」の二航戦がともに投入されていたなら、米空母二隻を完全に撃沈し、ポートモレスビーの攻略は実現していたであろう。
第二の戦訓は、艦隊編成である。
米軍は、空母二隻を中心に置き、その周りを五隻の巡洋艦が囲み、さらにその外周を八隻の駆逐艦がとり巻いて二重の輪型陣を敷いていた。当然のことながらその上空には、警戒の戦闘機群が配されてバリヤーを張っている。
輪型陣による防御壁にはばまれて、味方機の多くが犠牲となっている。
これはもっとも重要な戦訓であったが、当時、日本側では敵空母二隻を撃沈したと信じられており、その”大戦果”の陰にかくれて見落とされていたものである。
日本軍が対空防御に効果のある輪型陣を採用したのは、昭和十九年十月二十四日のシブヤン海における栗田艦隊が最初である。

ミッドウェー作戦での南雲機動部隊の編成をみると、空母四隻に対して、これを護衛する艦艇が戦艦二隻、重巡二隻、軽巡一隻、駆逐艦十二隻の合計十七隻である。
これは珊瑚海海戦での、空母二隻に対して重巡二隻、駆逐艦六隻の護衛艦艇八隻という比率とまったく同じである。これではロクに輪型陣を構成することもできない隻数である。
空母が、敵機の空襲に対してきわめて無力であることは珊瑚海海戦で実証ずみである。もっと厳重な警戒艦の配備を考えるべきであったろう。

さらにまだ問題がある。
当初の予定としては、ポートモレスビー攻略作戦が終了したあと、五航戦をミッドウェー作戦に参加させ、六隻の空母で出撃する予定であった。
ところが五月十七日に内海に帰投した「翔鶴」は、修理を延期されたまま放置された。ドックに入渠したのはなんと、一ヶ月後の六月十六日になってからである。
「瑞鶴」は損傷はなかったが、搭乗員を大量に失っていたので、兵力を回復するため参加が見送られた。
これに対して米軍では、損傷した「ヨークタウン」は修理に三ヶ月かかるとみられていたが、ニミッツ長官の厳命により昼夜兼行の突貫工事を行ない、わずか三日間で修理を終えて五月三十日の朝には装備をととのえ、真珠湾を出港している。
この日米のはなはだしい懸隔をどう見るべきだろう。
ミッドウェー作戦は、珊瑚海海戦の戦訓を無視して実施されたが、その結果を見ると、以前のエラーをふたたびなぞり、悲劇を呼び込んだように見られるのである。

2013年10月19日土曜日

日本軍隊用語集 ― 赤紙(共)

赤紙(あかがみ)

個人の意志に関係なく兵役を国民の義務とする徴兵制は、今では時代おくれの奴隷制度のようにみえるが、十九世紀から二〇世紀にかけての先進国はすべて徴兵制をしいていたので明治の軍隊も自然にそれに習った。
ひとたび戦争が突発すると兵隊を増やす動員がかかり、予備役・補充兵(徴兵検査乙種合格以下)たちに呼び出しがかかる。このときに役場の兵事係が自転車に乗って配って歩く呼出状が赤紙である。
正式には「臨時(充員)召集令状」であり、召集令状とも呼ばれたが、実際は赤色ではなくピンク色であった。
赤紙には「右臨時召集ヲ命セラル 依テ左記日時到着地に参着シ此ノ令状ヲ以テ当該召集事務所ニ届出ヅベシ」と印刷され、日時・場所・部隊名がペン書きされてある。入隊者は晴れ着に着替え、この令状を持って家族や近所の者に見送られて出て行くわけだが、それが一生の見納めとなることもしばしばだった。
当時、郵便ハガキ代は一銭五厘であったため、ハガキで呼び出しがあったような通説もあるが、赤紙はあくまでも役所の兵事係の手によって本人や家族に手渡され受領印をもらう厳格なもので、この令状を受け取った本籍地の家族が転居や旅行先の本人に通知したハガキからの伝説化であろう。
騎兵隊や砲兵隊で軍馬の重要さを教育する下士官が「お前らは一銭五厘でいくらでも集められるが、お馬さまはそうはいかねえ」とハッパをかけるのもこのあたりからである。

戦訓9 ― ミッドウェーの悲劇を予告

昭和十七年四月五日、セイロン島沖海戦で南雲機動部隊の艦爆隊が、英重巡「ドーセットシャー」と「コーンウォール」の二隻を撃沈していたころ、その地点から南西約二〇〇キロの海上を、サー・ジェームス・ソマービル大将指揮のイギリス東洋艦隊が北東寄りの針路で東進していた。
この時、南雲機動部隊は、敵艦隊を発見する絶好のチャンスだったのである。
敵の二重巡が南下中だったのはソマービル艦隊に合同するためであった。この両艦を発見したとき南雲司令部では、敵の行動目的が何であるかを推測すべきであったろう。そして彼らの針路方向に疑念をもって、索敵機の捜索範囲をもう少しひろげていたなら、ソマービル艦隊を発見することができたはずである。
この日の夕刻、敵沈没艦の南西約九〇キロ付近まで「利根」の水偵が索敵に飛んだが、午後五時ころ、「敵を見ず」と報告して帰投している。
じつはこのとき、二重巡沈没地点の南西方、約一八〇キロ付近を、ソマービル艦隊が行動していたのである。
「利根」機はすれすれのところで、敵艦隊を見逃してしまったのであった。せめてあと十五分も飛べば、英東洋艦隊の威容を目視することができたはずである。
午後七時九分には、機動部隊の東方側面海上の哨戒配備についていた駆逐艦から、敵機発見の信号があった。ただちに「飛龍」から零戦六機が迎撃に発進した。
この敵機はソマービル大将が放った索敵機で、複葉の雷撃機フェアリー・ソードフィッシュ二機であった。零戦はこのうちの一機を撃墜したが、他の一機は、太陽方向に遁走、視界外に逃げ去った。
この敵機は明らかに艦上機である。ということは、空母を擁した敵機動部隊が、この方面のどこかにいるということになる。
ところが、南雲部隊の反応は鈍かった。もう夕方でもあり、海上は暮れはじめていたせいもあってか、遁走した敵機の深追いをやめ、新たな索敵機も発進しなかった。
司令部の幕僚たちも、この敵機を深く考えず漫然と見過ごしていた。戦闘詳報にも記録していない。わずかに五航戦(翔鶴、瑞鶴)の戦闘詳報に、
「五日夕刻、敵複葉艦上機らしきもの二機が我に接触したので、付近に敵空母が存在する疑いがある」
と記録されているだけである。
これは一航艦幕僚の重大な怠慢である。敵の艦上機がウロウロ飛び回っている以上、敵機動部隊が待ち伏せしていると判断すべきであろう。
ただちに索敵機を出していたなら、ソマービル艦隊をたちまち発見できたはずである。
このような片々たる情況でも、整理して再検討すれば、索敵の不徹底が大魚を逃していたことに気がつくはずである。
この戦訓の見直しと研究があったなら、後日のミッドウェー海戦で、日本軍は米機動部隊を先に発見していたかもしれないのである。

2013年10月14日月曜日

日本軍隊用語集 ― 動員(共)

動員(どういん)

平和のときの軍隊は予算もかかるので、できるだけ小規模にして人員の定員割れもそのままにしている。
ところが、戦争が近づいたり事変が突発していざ鎌倉となると、軍隊は司令部からの動員下令によって戦時体制に移り大忙しとなる。動員、即戦地への出征というわけではないが、一週間ほどの短い間に兵営も艦隊もパンパンにふくれ上がる。

動員とは軍隊の人・物・金を戦闘向きにつくり上げることといえる。召集令状が家々に舞い込み、補充兵や予備役の兵がぞくぞくと兵営にかけつける。

同じ班内でもお互いに初対面の現役兵予備役兵、兵営の味も知らない未教育の補充兵がその日から生死を共にする戦友となる。

《作成中》南方進攻作戦をちょっと整理

させてください。
実際の戦闘は、結果として言うのは簡単かもしれませんが、その実、非常に敵・味方の状況が複雑に絡んで推移し、その勝敗は戦力は勿論ですが、運にも少なからず左右されるものと思っています。

昭和16年

昭和17年
2月4日          ジャワ沖海戦                    鹿屋空陸攻隊
2月20日        バリ島沖海戦
2月27日        スラバヤ沖海戦
2月27日        バタビア沖海戦                連合軍側呼称、スンダ海峡海戦。バタビアは現ジャカルタ。
4月5日          セイロン島沖海戦

戦訓8 ― ミニ・ミッドウェー

昭和十七年(一九四二)四月五日のインド洋作戦におけるセイロン島沖海戦で、二度にわたる兵装転換にともなう攻撃隊発進の時期遅延があった。『ミニ・ミッドウェー』ともいうべき事件である。しかも状況はウリ二つといってよいほど酷似したものであった。

南雲機動部隊は、セイロン島コロンボの飛行場や港湾施設、船舶、兵舎などを攻撃したが、総指揮官淵田美津雄中佐は、破壊の程度は不十分として、十一時十八分、第二次攻撃の必要性を報告した。

一方、インド洋上の機動部隊では、敵艦隊の出現にそなえて、「赤城」「飛龍」「蒼龍」「瑞鶴」「翔鶴」の五隻の空母の飛行甲板には、魚雷を装着した艦攻六三機、徹甲爆弾を吊下した艦爆六九機が待機していた。

南雲長官は指揮官機からの電報をうけると、十一時五十二分、「第三兵装」即ち、艦攻の魚雷を八〇〇キロ陸用爆弾に、艦爆の徹甲爆弾を二五〇キロ陸用爆弾にする兵装転換を下命した。

この作業中に第一次攻撃隊が帰ってきた。飛行甲板では収容作業がはじまり、これが午後一時二十五分までつづいた。
ところが、収容中の午後一時に索敵に出ていた水偵より、「敵巡洋艦らしきもの二隻見ゆ」との緊急信が入ってきた。

南雲長官は、一時二十三分、作業中の第二次攻撃隊に対し、「敵巡洋艦攻撃の予定、艦攻はできうるかぎり雷撃とす」と指示、「兵装元へ」と下令した。

この後、発見した敵艦が駆逐艦だ、いや重巡だと、情報の混乱があったが、午後二時十八分、
「攻撃隊は一五〇〇(午後三時)発進、敵巡洋艦を攻撃せよ、間に合わざるものは後より行け」
と下令された。

一五〇〇なら再換装の発令から約一時間半後である。艦爆なら間に合うはずだ。事実、三時ころ、「赤城」「蒼龍」「飛龍」から換装を完了した合計五三機の艦爆隊が急速発進した。
しかし、この時点でも、再換装中の艦攻隊は、まだほとんど飛び立てる状況ではなかった。
艦攻全機の魚雷装着が終わったのは、午後四時三十分ころであった。最初の兵装転換命令から、じつに四時間四十分もたっていた。

結果的には、この間に戦況は変化しており、発進した艦爆隊だけで敵重巡「ドーセットシャー」と「コーンウォール」の二隻を撃沈してしまったので、艦攻隊は出動しなくてすんだ。

この時の戦闘では敵からの攻撃がなく、味方の一方的な進撃態勢だったので、コトなきを得たが、万一、敵に先手をとられていたなら、味方の被害は絶大なものであったはずである。

ミッドウェー海戦では、これとまったく同じ状況が現出した。
もし南雲長官や幕僚たちが、兵装転換の所要時間を熟知していたなら、ミッドウェーで同じような命令を出したであろうか。
やはり戦訓無視の姿だったと思われる。

2013年10月13日日曜日

日本軍隊用語集 ― 赤煉瓦(共)

赤煉瓦(あかれんが)

鉄筋コンクリートがまだ未発達の明治時代には、洋風の建築物の大部分は赤い煉瓦を積み重ねて建造された。
官庁も学校も監獄もそうで、三宅坂の参謀本部(現最高裁判所)、その隣りに陸軍省(現国会図書館)、霞ヶ関の海軍省、軍令部(現法務省)も堂々たる赤煉瓦造りであった。
したがって”赤煉瓦”は両省と軍令機関の建物や所在地、さらにはそこに勤務する軍人たちの代名詞でもあった。

軍人として出世するには一生懸命勉強して赤煉瓦勤務になることが夢であり、ここに赤煉瓦への憧れ、現場への蔑視、それへの反発といったさまざまのコンプレックスも生まれていった。

陸軍省が市谷台(旧自衛隊、現防衛省)に移り、他の建物も東京空襲で崩壊したなかで、元海軍省の煉瓦造りは生き残り、赤煉瓦の代名詞を一身に引き受けていた。
戦後も長い間、法務省として役立っていたが、一世紀の風雪に耐えられず、ついに姿を消した。そしてその跡に一個の記念碑だけが海軍の全盛時代を物語っている。

戦訓7 ― 油断の帝都空襲

昭和十七年四月十八日早朝午前六時半ころ、東京の東方七三〇カイリ(約一三五〇キロ)の太平洋上に配備してあった監視艇「第二十三日東丸」(約九〇トンの漁船)が、
「敵航空母艦三隻見ゆ」
との緊急信を発してプツリと消息を断ってしまった。同艇は砲撃により撃沈されたのである。

開戦時に山本五十六連合艦隊司令長官が、日本軍がハワイ攻撃ができるのと同様、米軍も東京攻撃ができるはずだとして、その防衛策として構築した監視バリアーに敵機動部隊がひっかかったのであった。

米軍の艦上機が発進できる攻撃距離は、その性能から、二五〇カイリ(約四六〇キロ)以内とみられていた。
したがって、敵機が東京上空に来襲するのは、明十九日の日の出以降になると判定されたのである。
空母が搭載しているのは艦上機のはずだという常識的先入観が、誤判断の基となったのである。

航空母艦が陸軍の双発爆撃機B25を搭載しているなどとは、日本軍は夢にも考えていなかった。
だれ一人として疑念をはさまなかった。このことは敵戦力を軽視していた証拠であり、常勝気運に有頂天になっていた用兵者たちの緻密さに欠けた戦術眼の濁りであったといわねばならない。

指揮官ハルゼー中将は、ドーリットル中佐の爆撃計画くり上げの決意を採用し、燃料切れのおそれのある中、午前九時ころ、日本の六二三カイリ(約一一五〇キロ)遠方から攻撃隊を発進させた。全機が発進したあと、機動部隊は反転して、真珠湾に向け帰途についた。

午後一時半ころから東京上空にB25が一、二機ずつ、ばらばらに侵入してきた。上空には零戦が待機していたが、敵機が低空で侵入してきたので発見できなかった。
日本軍は完全に意表を衝かれた。空襲警報のサイレンも鳴らず、爆撃されるままで、ついに一機も撃墜することができなかった。
東京、川崎、横浜、横須賀、名古屋、神戸が空襲され、死者四五名、重傷者は一五三名と人的被害が大きかった。物質的損害は少なかったが、市民にあたえた心理的衝撃は大きかった。

勝ちつづけたことから、敵は弱兵であるとの自惚れ心と傲慢心がはびこり、守りを忘れさせ、油断させたのであった。

2013年10月12日土曜日

きけ わだつみのこえ 上原良司陸軍大尉 二十二歳 「所感」

上原良司
一九四五年五月十一日、陸軍特別攻撃隊員として、沖縄嘉手納沖の米機動部隊に突入戦死。
陸軍大尉。二十二歳

所感

空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人が言った事は確かです。操縦桿を採る器械、人格もなく感情もなく、もちろん理性もなく、ただ敵の航空母艦に向って吸いつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬのです。理性をもって考えたなら実に考えられぬ事で、強いて考うれば、彼らが言うごとく自殺者とでも言いましょうか。

言いたい事を言いたいだけ言いました。無礼を御許し下さい。ではこの辺で。
                                                                                                                出撃の前夜記す

きけ わだつみのこえ ――日本戦没学生の手記――

太平洋戦争の真実を追う」が拙ブログの副題である。
然るに、今まできちんと読み学んで来なかった自己の怠慢を真に恥じつつも、やはり避けて通ってはいけないと考えたしだいである。


死者は記憶されることで生きる。時代の推移と状況の変化にもかかわらず、読者に受けとめようとする誠実な意志があるかぎり、戦没学生のどの言葉も、読者の胸に刻まれるにちがいない。


若い戦歿学徒の何人かに、一時でも過激な日本主義的なことや戦争謳歌に近いことを書き綴らせるにいたった酷薄な条件とは、あの極めて愚劣な戦争とあの極めて残忍闇黒な国家組織と軍隊組織とその主要構成員とであったことを思い、これらの痛ましい若干の記録は、追いつめられ、狂乱せしめられた若い魂の叫び声に外ならぬと考えた。

今記したような痛ましい記録を、更に痛ましくしたような言辞を戦前戦中に弄して、若い学徒を煽てあげていた人々が、現に平気で平和を享受していることを思う時、純真なるがままに、煽動の犠牲になり、しかも今は、白骨となっている学徒諸君の切ない痛ましすぎる声は、しばらく伏せたほうがよいとも思ったしだいだ。

しかし、追いつめられた若い魂が、――自然死ではもちろんなく、自殺でもない死、他殺死を自ら求めるように、またこれを「散華」と思うように、訓練され、教育された若い魂が、若い生命のある人間として、また夢多かるべき青年として、また十分な理性を育てられた学徒として、不合理を合理として認め、いやなことをすきなことと思い、不自然を自然と考えねばならぬように強いられ、縛りつけられ、追いこまれた時に、発した叫び声が聞かれるのである。この叫び声は、通読するのに耐えられないくらい悲痛である。それがいかに勇ましい乃至潔い言葉で綴ってあっても、悲痛で暗澹としている。

現在流行している戦争ルポルタージュの一切に見られない貴重なヒューマン・ドキュメントの数々が、本書に見られる。

若くして非業死を求めさせられた学徒諸君のために…

合掌

日本軍隊用語集 ― 鎮守府(海)

鎮守府(ちんじゅふ)

明治のはじめ陸軍に鎮台、海軍にこの鎮守府が設けられた。
鎮は鎮定や鎮火のように災害をしずめ国や村の安定を守る意味があり、軍のラッパ譜にも儀式用の「国の鎮め」という曲がある。

最終的に横須賀・呉・佐世保・舞鶴の四大鎮守府に落ち着いた。略称はヨコチン、クレチン、サチン、マイチンである。
すべての帝国海軍の艦艇と下士官・兵は、この中のどれかの鎮守府に在籍するようになっているから船と軍人の本籍地ともいえよう。

この鎮守府の一ランク下は要港部になり、小規模の海軍基地で大湊、台湾の馬公、朝鮮の鎮海、満州の旅順などにあり、太平洋戦争中には占領したシンガポールにもつくられて「昭南要港部」となった。

鎮守府のボスは天皇が直接に任命した海軍中将または大将で、二・二六事件のときのような戒厳令下には独断で兵力を動かす権限ももち、艦隊司令官またはそれ以上の要職であった。重要なポストであるから、後に海軍大臣や連合艦隊司令長官になったエリートはたいていこのポストを通過している。

戦訓6 ― 人心掌握

勝つための条件で大切なものに、部下の将兵をいかに掌握するかという、指揮官の人間的な器量の問題がある。

艦艇の場合、全乗員の上下の心が一致するのは、やはり駆逐艦や潜水艦、海防艦、駆潜艇といった小艦艇の場合が多い。
駆逐艦の乗員は約一五〇人から二三〇人。それが狭い艦内で肩をすり寄せて同居している。ここでは階級の上下は問題ではない。むしろ親兄弟のような人間関係ができあがっていた。
一隻の駆逐艦は、艦長を親分とした”次郎長一家”である。艦長と乗員の人間関係がこまやかで信頼関係が深くなければ、総員が一丸となって敵にあたる心意気は生まれてこない。

艦長の、人の心を己れの心とする思いやりが、たくまざる部下掌握の要諦になる。
艦長以下の一致団結した乗員たちの結束力が、劣勢を勝利に導く。
階級の垣をこえて部下の心の中にストレートに飛び込んで来る艦長の人柄に乗員たちの顔が輝く。

死ぬも生きるも艦長の胸三寸に託されている船乗りたちだからである。

日本軍隊用語集 ― 連隊区(陸)

連隊区(れんたいく)

師管と一対をなす用語で、師団の下に連隊があるように師団管区の下に連隊区がある。
明治の建軍以来、日本陸海軍は大部分を徴兵制度で一部を志願制で兵員をまかなっていたが、この師団管区・連隊区の目的は全国から徴兵するためのメカニズムであった。

具体的にいえば、東京都日本橋区(現中央区)に本籍をもつ青年は満二〇歳になると、日本のどこに住んでいても本郷連隊区司令官から通知が届き、徴兵検査を命ぜられて指定の検査場に行く。戦争になると突然、連隊区司令官の名で舞い込んでくる召集令状赤紙)で歩兵第一連隊に入隊し、同連隊長の指揮下に入るわけだ。

人生五〇年の時代に、日本の男子は満四〇歳の国民兵役の義務が終わるまでは、自分の出生地の連隊区から逃げられなかった。

戦訓5 ― 兵は拙速を尊ぶ

『孫子』の作戦篇の一節。
「兵聞拙速未観巧之久也」
兵には拙速を聞くも、いまだ巧久をみざるなり。
ここでの”兵”は戦争を意味する。戦争になったら、たとえ戦い方が拙劣であっても、一日も早く切り上げて終止符を打ったほうがよい。戦い方が巧妙でも、長期戦に持ちこんで勝ちを得たという例はみたことがない。

戦闘に勝つための戦法として、日本軍は速戦即決を標語に用いたほどだが、これはむしろ中国の晋の正史である『晋書』の一節によっている。
「巧遅不如拙速」
巧遅は拙速に如かず。
つまり、巧みで遅いよりは下手でも速いほうが勝ちをしめる、との意味である。

作戦としての拙速戦法は、当初から計画しておくというものではない。これはあくまで咄嗟の戦術であり、いわば窮余の一策として指揮官のインスピレーションから発生するものである。
これには指揮官の絶妙な決断が必要であり、敵の虚をつくタイミングがぴたりと合っていなければならない。

一方で、拙速戦法は、成功すれば大きな戦果が得られるが、万一、タイミングを間違えると大損害をこうむるおそれがあることも心得ておかなければならない。

2013年10月8日火曜日

日本軍隊用語集 ― 師管(陸)

師管(しかん)

師団管区の略称。
まず師団を説明しよう。
師団という軍の単位は連隊小隊とともに今も昔も変わらない用語で、日本陸軍では戦術の最小単位が中隊、戦略の最小単位が師団で、この間に旅団―連隊―大隊があり、中隊はさらに小隊・分隊と細分される。(自衛隊には旅団は残っていない)
いざ戦争となると複数の師団で、複数の軍で方面軍、複数の方面軍で総軍となる。

このように師団は最小の戦略単位であると同時に、最大の戦術単位として戦場に出動するわけだが、平時にはそれぞれ定められた所に司令部を置き、周囲に配下の部隊を駐屯させた。
この定められた区域が師団管区「師管」である。

戦訓4 ― 待ちぼうけの潜水艦隊

ハワイ作戦では、連合艦隊はまず真っ先に潜水艦部隊を出撃させていた。
いよいよ開戦となり、先端が開かれたあとの真珠湾付近は、駆潜艇や駆逐艦によるじつに厳重な警戒が敷かれ、港外に潜伏’していた日本潜水艦はうっかり頭も出せないほどであった。
そこで昼間は深度三〇メートルから五〇メートルのところに潜航、または海底に着底していて、水中聴音機で敵艦のスクリュー音をさぐることにした。
ところが、いくら待機していても敵艦のスクリュー音はまったく聞こえなかった。
てっきり敵艦は付近海面を通っていないのだろうと考えていたのだが、事実は、潜伏している日本潜水艦の頭上を堂々と、しかもひっきりなしに水上艦艇が通過していたのである。
そのなかには、日本軍が血眼になってさがしていた航空母艦が、毎日のように、真珠湾を出たり入ったりしていたのである。
それなのに、なぜスクリュー音が海中の潜水艦に聞こえなかったのか?

一般に真夏は海水の表層温度が高くなって、下層との間に水温差が生じる。この温度差の境い目で音が屈折して垂直に下方に向かう。だから温度の低い下層域に潜んでいるとスクリュー音は近い距離(一〇〇〇メートル)でもまったく聞こえない。
また、冬は逆に表層温度が下がるので、浅い冷水層にいると、遠い距離(一〇カイリ以上)でも、音は水平に伝わって聞こえるが、逆に深度を深くとって温度の高い温水層に潜んでいると、音は温水層のところで上に反射してしまうので、敵艦が頭の上を通っても、音はまったく聞こえない。
日本の近海では温度差がそれほど激しくないせいか、訓練時に音を捕捉できなかったという例はなかった。ところが、実際には訓練方法に問題があったのである。
平時訓練と実戦とは、まったく違った状況になることを教えてくれる教訓である。

日本軍隊用語集 ― 鎮台(陸)

鎮台(ちんだい)

維新戦争が官軍の大勝利で終ったあと、その主力となった薩長土肥の藩兵部隊は、さっさとそれぞれの国もとに帰ってしまった。
新政府がまずやらなければならなかったのが、その治安の空白を埋める軍事力の創設であった。
その根拠地となったのが新たに創設された鎮台であり、その司令部は維新後もとり壊さずに残した各地の城の中に置いた。
明治五(一八七二)年に全国的に徴兵令が発せられると、鎮台の数も東京・大阪・鎮西(小倉)・東北(仙台)と増えた。
明治八年から二一年にかけて、しだいに増強整備して七軍管区六鎮台制となった。これがのちにつづく軍管区の師団となる。
陸軍のこの鎮台も、海軍の鎮守府も文字どおりその任務は国を鎮める治安軍である。
やがて兵力増強とともに戦略単位の師団が生まれて鎮台の名は消滅した。

2013年10月7日月曜日

戦訓3 ― 早期撤退した機動部隊

真珠湾奇襲作戦は成功した。
しかし、成功した第一回空襲に次ぐ第二回空襲は実施されなかった。
行方不明の敵空母が、どこにいるかわからないし、敵大型機に発見されて通報されると、いつどこから敵の母艦機に奇襲攻撃をかけられないともかぎらない。
これが南雲司令部の考えた避退理由である。
南雲司令部では、母艦を失うことを極度に恐れていた。
しかし、自軍の都合を優先するあまり、討ちもらした海軍工廠や燃料タンクなど、攻撃できるものをみすみす見逃すということは戦術として下策である。ことに攻撃地がその後に復活したとき、強力な敵地になることを考えると、味方の損害を押してでも、徹底的に破壊しておかなければ、あとからより以上のシッペ返しを受けてしまうことになる。

2013年10月6日日曜日

日本軍隊用語集 ― 大本営(共)

大本営(だいほんえい)

大日本帝国憲法の第十一条には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とあり、日本軍の最高司令官であり絶対の命令指揮権があって政府ですらこれに介入できない。これが独特の統帥権である。

形式的には天皇の名による作戦命令の下令であるが、天皇がいちいち作戦を考えたわけではない。陸軍は参謀本部、海軍は軍令部の作戦参謀がつくった案を参謀総長や軍令部総長が承認し、宮中の侍従武官の手によって天皇の決裁をあおぐ。

ところが、いざ戦争に突入すると陸海軍が別々に動いていては、それこそいくさにならないので、戦時に限って陸の参謀本部と海の軍令部とを一本化した。この有機体が大本営であり、日清戦争直前の一八九三(明治二六)年に設けられたのが最初である。

大本営が設けられて一本化されると、陸軍参謀本部と海軍軍令部はそれぞれ大本営陸軍部と海軍部に名前が変わり、参謀たちは大本営参謀となる。そしてここから発令される命令はそれぞれ大陸命大海令と略して呼ばれた絶対的な戦略命令であった。

戦訓2 ― 指揮官の適材適所(南雲忠一)

太平洋戦争における日本海軍をみても、配置された指揮官が適材適所であったかどうかで、戦局を大きく左右した例がいくつかある。
ハワイ奇襲作戦の陣頭指揮をとった第一航空艦隊司令長官南雲忠一中将。

ハワイを目ざして進撃中の旗艦「赤城」の艦橋で南雲は、参謀長の草鹿龍之介少将にこう言った。
「参謀長、君はどう思うかね。僕はエライことを引き受けてしまった。僕が、もう少し気を強くして、きっぱり断わればよかったと思うが。いったい出るには出たが、うまくいくだろうかねえ」
いかにも不安げな顔色である。
「大丈夫ですよ。かならずうまくいきますよ」
草鹿はこともなげに言った。
「そうかねえ、君は楽天家だね。羨ましいよ」

南雲の性格を見通していた山本長官は、機動部隊の指揮官には小沢治三郎中将をあてたいものだと、側近の宇垣纏少将にひそかにもらしていた。
しかし、人事は海軍省の所管である。軍令承行令という人事・階級の序列を決める海軍法規からもできない相談である。

第一撃の攻撃隊二群は、真珠湾の敵艦艇や航空基地に大打撃をあたえた。艦隊では当然、第二撃の攻撃命令があるものと考えていたが、それがなかった。

「長門」の連合艦隊司令部では、南雲が第二撃を実施しないことに激高した。幕僚たちは第二撃を実施させるか、敵空母を求めて進撃させるか、山本長官に命令電を出すように迫ったのである。
「もちろん、それをやれば満点だ。僕も希望するが、被害状況が少しも分からないから、ここは機動部隊指揮官に判断を任せよう」
といって命令電は打たせなかった。このあと山本長官は、
「南雲はやらんだろうなあ」
と、そばの幕僚にもらしている。山本の推測は、まさに的中したのであった。

2013年10月5日土曜日

日本軍隊用語集 ― 皇軍(陸)

日本軍隊用語集

死語発掘
歴史の事実を伝えるため、埋没させてはならない、戦争を語る言葉たち。


皇軍(こうぐん)

天皇直属の軍隊のこと。
戦況を報道する新聞やラジオで「わが軍は」「わが帝国陸軍は」「わが日本軍は」など、まちまちの表現がすべて皇軍と統一されたのは、一九三七(昭和一二)年に始まった日中戦争のころからであった。

戦訓1 ― 見逃した石油タンク

真珠湾奇襲攻撃。
日本軍には第一目標を戦艦や空母などの大艦にむけて、それ以外には目もくれないという傾向があった。とくに輸送船や地上施設など、間接戦力を無視する傾向が強い。
血気にはやる攻撃隊は、とくに指示されないかぎり、手柄となる敵艦攻撃にのみ向かっていくのは当然のことである。
日本軍が見逃した燃料タンクは、米軍の反撃を支える重要な要素となった。この燃料がなかったならば、米空母は太平洋上を一歩も機動できず、その後の珊瑚海海戦もミッドウェー海戦も起きなかったか、あるいは日米両軍の戦闘方法が大きくサマがわりしたものになったであろう。

坂井の右目は、ガダルカナル島上空での

負傷で視力を失っている。
昭和十七年八月七日、敵SBD艦爆八機編隊を戦闘機と誤認し、後上方から攻撃をかけようとして後部旋回機銃に撃たれ、頭部に重傷を負ったのだ。
瀕死の重傷を負い、出血多量で半ば失神しながら奇跡的にラバウル基地に帰りついた。

SBDドーントレス

2013年10月4日金曜日

昭和十八年、ガダルカナル島をめぐる

航空戦では、部下たちの最期を幾度も眼のあたりにした。敵弾を浴びソロモンの海に飛沫を上げて突っ込んだ艦上爆撃機や、襲いかかる敵戦闘機から艦爆を守ろうと、自ら盾になって弾丸を受け、空中で火の玉となって爆発した零戦の姿を思い出すたび、あれが犬死にだというのか、と、やり切れない思いに涙が溢れてきた。

2013年10月2日水曜日

「お前たちの突入を成功させる

ため、直掩機まで未帰還になっているというのに、爆弾を捨てて帰ってくるとは何事だ!」
鈴木はめずらしく声を荒らげて橋爪を叱った。