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2013年12月29日日曜日

八月十二日、猛暑のことである。

局長室の入口のドアは開けられ、入口近くに簀の衝立が立てられてあった。内部は透かして見える。
相沢は入口近くに持ってきたトランクを置き、将校マントもいっしょに置いた。マントは凶行後、返り血をあびた軍服をかくす用意である。衝立の向うに永田の姿が見えたので、軍刀を抜き、無言のままつかつかと衝立の右側から入った。
局長室の永田は二人の将校と話をしていた。一人が新見英夫東京憲兵隊長で、一人が山田長三郎兵務課長であった。新見は折から村中、磯部の「粛軍ニ関スル意見書」の印刷物を永田に見せて報告中だった。
正面に坐って二人と話をしていた永田は、入口から軍刀を抜いて入ってきた相沢を見ると、椅子からすっくと起ち上がった。永田は難を避けるように二人の将校のほうへ寄った。
ところがその相沢に気付かなかったのかどうか、山田兵務課長はさっさとその部屋を出て行ってしまった。つまり、相沢が抜刀して闖入したのと入れ違いに退室したのである。当然にあとで大問題となった。
さて、軍刀を振るって永田に逼った相沢は椅子を跨いだのか、あるいは飛び越えたのか自分ではおぼえていないが、その一撃を永田の右肩に加えた。手ごたえがない。切尖は軍服と皮膚の表面を浅く切り裂いたにすぎなかった。
横の新見憲兵隊長がこの危急を見て机の左側から相沢に抱きつこうとした。
彼は相沢に体当りし、咄嗟に左手を上げて無意識のうちに永田を庇ったために相沢の刃を受け、左上膊に骨膜に達する深傷を負った。新見は倒れ、意識を失った。
その間に永田は隣室の軍事課長室に逃げるつもりでドアのところまで来た。
相沢はドアにぴったり身体をつけた永田を上から斬り下ろすことが出来ないので、刀に左手を添えて背中から突き刺した。これが永田の致命傷となった。相沢も左手の指四本の根もとに骨まで達する傷を負うた。剣道四段の相沢も夢中だったのだ。
永田はその場に倒れたが、なおも気丈に起ち上がった。彼はよろよろしながら応接用のテーブル付近まで行ったが、そこで力尽きて仰向けに倒れた。相沢は切尖を倒れた永田の右のこめかみのところに加え、それから、武士の作法通り、とどめの一刀を咽喉に突き刺した。
この間、一分とはかかっていない。相沢も声を発せず、永田も沈黙のままだった。

永田にとどめを差した相沢が刀を鞘に収め、左手の傷口を自分のハンカチで縛ったのち、廊下に出てマントを着けたときは誰もいなかった。彼は右手にトランクを提げ、凶行のときにとばした自分の帽子にも気づかず、悠々と山岡整備局長の部屋に行った。
山岡の前にきた相沢は、
「閣下。永田閣下に天誅を加えてきました」
といった。

永田軍務局長の遺体写真、日本刀で切りつけられた無残な遺体

公訴事実にも、相沢の性格を、

《資性純情朴直にして感激性に富み、……軍人精神を涵養するに伴い尊皇の信念益々鞏固となり、任官後常に奉公の全からざらんことを憂い、或は明治維新志士の伝記を愛読してその言行に私淑し、或は禅門に入りて心神の修養に努め、私心を去り、至誠皇基の恢弘に邁進せんことを期するに至り》
と断定しているから、これ以上何もつけ加えることはない。

相沢三郎中佐

2013年12月28日土曜日

「派閥とか何とかいわれるが、

それなら永田軍務局長はどうであるか。永田は宇垣陸相のとき三月事件に関与し、陸軍の統制を紊したのみならず、その後の行動は永田こそ派閥的行動をしている張本人ではないか。こういう者を側近において自分らを責めるのは順逆を誤ってはいないか」
真崎としてはここではじめて切札を出したのである。

皇道派は教育総監部にも統帥権が

あるとし、二長官協議の総監罷免は統帥権の干犯だという論理に発展させた。皇道派の真崎総監罷免に関する怪文書のほとんどはこの論理を適用している。

「日本が侵略戦争を行なった」というのは、

東京裁判の検察側プロパガンダ以外の何ものでもありません。
マッカーサーもアメリカ上院の公聴会で、「日本が行なったのは自衛戦争だった」と証言しています。

戦後にアメリカ軍がフィリピンの戦いで

捕獲した陸軍の四式戦闘機「疾風(はやて)」に、オクタン価一四〇の燃料を入れて飛ばしてみたところ、P51ムスタングよりも高い性能を示しました。P51は、第二次大戦最強の戦闘機といわれる飛行機です。つくづく戦争とは総合力だと思い知らされます。

被弾した「鳥海」の艦隊司令部では、

自信も負傷した早川幹夫艦長が、「輸送船団を撃滅しなければ、飛行基地が敵の手に落ちて味方が大変なことになる。だから、鳥海一艦でも敵輸送船団を撃滅する」と主張していたことを忘れてはいけません。艦隊を率いる三川軍一司令長官が、その正論を受け入れて進撃に転じていたら、戦争の帰趨が変わっていたかもしれないのです。

陸軍も似たようなものです。

ガダルカナルで馬鹿げた作戦を繰り返した陸軍の辻政信作戦参謀は、昭和十四(一九三九)年のノモンハン事件でも、稚拙な作戦で味方に大量の戦死者を出しましたが、責任を取って
いません。
インパール作戦で三万人の兵士を餓死させた牟田口廉也中将も、公式には責任を取らされていないのです。
エリート官僚だけは失敗しても出世しつづけ、責任は現場の下級将校たちが取らされました。エリート官僚の「罪」をかぶる形で、多くの連隊長クラスが自殺を強要されたといいます。

失敗を不問に付す組織

真珠湾攻撃における最大の過ちは、第三次攻撃を行なわずにさっさと帰還した南雲長官を解任しなかったことだと思います。指揮官の結果責任が問われないという悪しき先例が、その後の海戦、ひいては敗戦を招いた元凶だといわざるをえません。
アメリカは失敗した指揮官に必ず責任を取らせます。真珠湾を奇襲攻撃されたアメリカ太平洋艦隊司令長官のキンメルは、一九四一年十二月十七日付の大統領命令で司令長官を解任されたうえ、大将から少将に降格されました。
議論の分かれる処分ではあるけれども、アメリカの指揮官は結果責任を負わされました。つまり、戦艦五隻をむざむざ日本に沈められた責任を見逃してはならないと考えたのではないでしょうか。

2013年12月22日日曜日

日本軍隊用語集 ― 特務士官(海)

特務士官(とくむしかん)

海軍士官になるには旧制中学校から兵学校・機関学校・経理学校・軍医学校に入り、そこを卒業して現役士官に任官するのが最もオーソドックスである。
戦争に入ると、幹部不足を埋めるために大学や高等専門学校出を大量に採用して間に合わせるが、商船学校出と同じに予備士官の身分であり、戦争が片づけばお払い箱となって民間人に戻っていく。
特務士官はそのどちらでもなく、兵隊から一段ずつ階段を登りつめ、兵曹・兵曹長という下士官をへて士官となった「たたきあげ」である。
兵隊から選抜のうえに選抜され、さらに長い年月をかけてあるから腕前は抜群、人格も高潔で部下には絶大な信望があり、兵学校出の少・中尉など足もとにも寄れない強力な存在であった。
彼らは普通の兵科・機関科上がりであり、仕事も現役の各科士官と同じで、特務士官の特務は明らかに差別用語で特別勤務をするわけではない。
艦内では分隊長になれず部屋も現役士官とは別、服装も肩章の金線が細く袖章にも差別を表わす桜の花がついている。
日本海軍の真の担い手は、特務士官と下士官であったと胸を張る人もいる。

連合艦隊戦訓18 ― 海戦と隊形

昭和十七年十一月十二日の夜半のことである。ガダルカナル島のヘンダーソン飛行場を、二隻の高速戦艦(比叡、霧島)が三六センチ主砲で艦砲射撃をしようとした直前、ルンガ沖で米艦隊(巡洋艦五隻、駆逐艦八隻)と不時会敵、乱戦乱撃の遭遇戦となったのが、第三次ソロモン海戦の第一夜戦である。
この海戦での問題点は、このような不時会敵をやすやすと招来したことである。その原因は、警戒隊の第四水雷戦隊中、「夕立」「春雨」が本隊のわずか三キロ前方を先行していたにすぎず、「朝雲」「村雨」「五月雨」に到っては本体より後落していたこと、更にはスコールによる悪天候のために、好機を待つため一時反転したが、その後の隊形の乱れを司令部がまったく気づいていなかったことである。

この日の早朝、ガダルカナル島にいる海軍部隊から、次の情報が寄せられていた。
「〇三四〇、敵兵力は輸送船五、軽巡三、重巡二、駆逐艦一一よりなる、輸送船は荷役を開始せり」
日没ころ、「比叡」から発進した零式観測機の偵察によれば、ルンガ泊地に敵艦船十数隻が在泊していることを伝えていた。
またガダルカナル島の海軍部隊から、
「敵は一七〇〇ころまで荷役を実施す、以後、視界狭小となり状況不明」
との連絡が入った。この敵情報告は、明らかに敵水上艦艇が待ちかまえていることを予測するに十分なものである。

挺身攻撃隊は午後十一時三十分、射撃準備を下令、飛行場までの距離二万メートルで測的を開始。
「砲撃目標、敵飛行場」
と、下命した直後である。十一時四十二分、突然、前路掃討中の「夕立」から、
「ルンガ岬方向に敵艦影七隻見ゆ、距離六〇〇〇メートル」
と報じた。ついでこの一分後、「比叡」も、約九キロ前方に敵巡洋艦らしい艦影四隻を認めたのである。
突然の会敵に、阿部弘毅中将指揮下の挺身攻撃隊も極度に混乱を呈した。
この状況の中で、一時五十分、「比叡」はとつじょとして、右舷側に黒い艦影が近づいてくるのを発見した。間、髪をいれず、阿部中将は命令した。
「右舷艦影に照射はじめ!」
「比叡」から、さっと一条の探照燈の光束が闇を切って走った。その光芒の中に、大型巡洋艦が幻燈のように浮かび上がった。巡洋艦列の一番艦「アトランタ」である。距離はおよそ一五〇〇メートル。
「撃てッ!」
号令一下、「比叡」の三六センチ主砲が砲身を水平にして火を吐いた。初弾命中。
強靭な燃焼力をもつ三式弾が、「アトランタ」の艦橋に炸裂した。つづいて巨砲のつるべ撃ち。しかし探照燈の照射で「比叡」の目標がはっきりしたため、他の米艦の砲火がいっせいに「比叡」に集中した。

米軍損害、沈没=駆逐艦四、軽巡一。大破=重巡二、軽巡一(のち沈没)、駆逐艦一。中小破=駆逐艦二、軽巡一。
日本軍損害、沈没=「暁」「夕立」の二駆逐艦。中破=「天津風」「雷」。八〇発以上の命中弾を受けて大破していた「比叡」は、翌十三日午前五時三十分より始まった、敵雷爆撃機の反復攻撃により、同午後四時、ついにキングストン弁を開き自沈。

第三次ソロモン海戦の前半戦は、日本艦隊の勝利となった。しかし敗れたとはいえ、米艦隊が、飛行場砲撃の阻止に成功したことは事実である。

戦訓。
一、スコール下では盲目状態になるので、艦隊運動には、よくよくの注意が肝要。
二、敵存在の情報がある以上、たとえその情報に疑念があったとしても、まず第一にこれに備えておくことが先決。



空襲を受ける戦艦「比叡」

2013年12月21日土曜日

日本軍隊用語集 ― 将校(共)

将校(しょうこう)

明治の前期には陸海軍とも兵科の数が少なく、少尉から大将までのすべての幹部武官は士官で、幹部の養成学校も士官学校と名付けられた。その下の下級管理職が下士官である。
時代とともに組織が複雑化して次々と新しい職種が生れてくると、歩兵・騎兵・砲兵・工兵の戦闘兵科や憲兵科などの士官は将校となり、軍医・獣医・薬剤・経理科などの士官は将校担当官と呼ばれて区別されるようになった。
海軍も同じで、砲術・水雷・航海などの兵科の士官は将校で、縁の下の力持ちの機関科や軍医・主計科士官は将校ではなかった。

連合艦隊戦訓17 ― 戦場心理 誤報事件

昭和十七年四月二十六日のこと、日本軍はポートモレスビーおよびツラギを攻略する準備でおおわらわになっていたときである。その真っ昼間、ソロモン諸島の北方海域を哨戒中の飛行艇から、「敵見ゆ、空母一、巡洋艦一、駆逐艦二、ラバウルの一一三度二二〇カイリ(南東方面約四〇〇キロ)」
と報告してきた。さあたいへんだ。ラバウル港には、出撃を前にした攻略部隊の船団がひしめいている。
緊急警戒と攻撃準備に、各基地では異常な興奮につつまれていた。ところが、索敵、触接のため発進した水偵や大艇は、視界三〇カイリ以上の好天にもかかわらず、敵を発見しなかった。
ラバウルでは首をひねった。敵発見の位置を調べ直すと、ブーゲンビル島のキエタ沖約二〇カイリの地点ということである。これはあまりに陸地に近すぎる。
どうもおかしいというので、帰投した索敵機の搭乗員たちを呼んで調査した結果、敵発見の地点付近には、船によく似た珊瑚礁のあることがわかった。結局、この珊瑚礁を敵機動部隊と誤認したのであった。
ラバウル方面の第八特別根拠地隊司令官金沢正夫少将(のち中将)は、当時の日誌に、
「敵機動部隊と騒ぎしも実は岩四と誤認、この頃の航空部隊の戦務の悪しきにも困る」
と記し、慨嘆している。

2013年12月15日日曜日

七月十五日付で真崎甚三郎教育総監の罷免

が断行された。
これが直接に相沢事件を起し、ひいては二・二六事件を誘発する要因の一つになる。
林銑十郎が陸相になってからの人事問題はことごとく真崎の横槍があった。
林人事の構想はいうまでもなく永田鉄山軍務局長のプランによるものであった。

林は最後の切札を出した。
「君がどうしても不同意というなら、軍の統制の必要から、この際部内の総意に従って総監の地位を勇退してほしい」


2013年12月8日日曜日

1941年12月8日のラジオニュース

2007年12月8日に聴く、1941年12月8日のラジオニュース - YouTube

大本営陸海軍部 十二月八日午前六時発表

「攻城砲兵司令官は二十八サンチ榴弾砲をもって、

ただちに旅順港内の敵艦を射撃、これをことごとく撃沈せよ」
その十分後に、二十八サンチ榴弾砲の陣地から殷殷と砲声がひびきはじめたのである。
その砲声のすさまじさは、地に亀裂を走らせしめんばかりの物凄さであった。
その命中精度は、百発百中であったといっていいであろう。

二十八サンチ榴弾砲

2013年12月4日水曜日

児玉(源太郎)の重砲陣地の大転換は、

みごとな功を奏しつつあった。
二〇三高地に対する歩兵の突撃が開始されたのは、十二月五日の午前九時からである。
同十時二十分には二〇三高地西南角は完全に日本軍によって占領された。
二〇三高地東北角のロシア軍に対しては、午後一時三十分、攻撃を開始した。銃剣をきらめかせて突撃し、わずか三十分で占領を確実にした。
 
この間、児玉は始終戦闘経過を注視しつづけた。
児玉は、二〇三高地占領がほぼ確定した午後二時、みずから有線電話にとりつき、山頂の将校にむかって電話した。
「そこから旅順港は見えるか」
受話器に、山頂からの声がひびいた。
「見えます。まる見えであります。各艦一望のうちにおさめることができます」
 

2013年12月1日日曜日

大山巖は、すべて了解した。

かれはこのとき日露戦争においてかれが出したあらゆる命令のなかで、唯一の秘密命令を出すのである。
やがて筆をとり、数行の文字を書いた。
「予に代り、児玉大将を差遣す。児玉大将のいうところは、予の言うところと心得べし」
という旨のもので、要するに児玉は総参謀長としてゆくのではなく、代理ながら総司令官としてゆくのである。この一札があるかぎり、軍隊における統帥秩序の紊乱ということは、形式上、避けられるであろう。

「しかし児玉さん、これをお使いなさるか」
と、大山はいった。
「そこは心得ています。十中八九は、使わずに済むとおもいます」

 大山巌

日露戦争中、満州で。

「いよいよ第七師団をやるのか」と、帝は、

この師団を旅順へやることを山県からきいたとき、そうつぶやいてしばらく無言をつづけた。第七師団が征けば、もはや日本は空であった。
北海道出身者をもって構成されている第七師団長は、薩摩人大迫尚敏であった。
全員が旅順要塞の敵の壕の埋め草になることはわかりきっていた。

「士卒の士気はどうか?」
と、帝はきいた。
大迫は薩摩弁まるだしで、士卒がいかに張りきっているかということを、大声でのべた。
「戦に勝つ、勝ったあと、北海道の師団ばかり征かんじゃったとあらば、北海道ンもんは津軽海峡の方ば顔むけ出来ん、ちゅうてどぎゃんにも焦っちょりましたるところ、ありがたくこのたび大命くだり申して……」
と、大迫はやったため、帝はよほどおかしかったらしく、声をあげて笑った。旅順へゆくというこの師団の陰惨な運命への思いやりが、この大迫のユーモアをまぜた報告のおかげで、帝の胸を霽らした。
「開戦以来、お上があれほど大声でお笑いになったことがない」
と、岡沢精侍従武官長があとで述懐した。

第七師団長 大迫尚敏

伊地知が得る前線状況は、

多くは第一線の青年将校からのまた聞き(階級的段階をへての)であった。乃木はそれでも苦情をいわなかった。乃木は金州で長男をうしない、のちにこの戦場(旅順)で次男をうしない、さらにかれ自身も出征の当初から死を決意していたが、かれの最大の不運はすぐれた参謀長を得なかったことであった。
乃木の高等司令部は、参謀長である伊地知の存在のために前線の感情からうきあがってしまっていた。
ある旅団長は、たまりかねて東京の長岡外史に手紙を書き、
「伊地知は、作戦というものをなにも知らない。つねに敵情や前線の事情に即しない命令を出してきては、いたずらに犠牲をふやしている」
と、直訴したりした。この文章のなかに伊地知のことを、
「老朽変則の人物」
と、きめつけている。
死傷者一万六千にのぼった第一次総攻撃のあと、伊地知参謀長が満州軍に送った報告文は、ほとんど素人同然の内容で、その粗末さは児玉らをおどろかせた。
「諸報告を総合するに、敵の堡塁や砲台は予想以上につよい。堡塁は堅固に掩蔽されており、しかも堡塁外を掃射すべき銃眼をそなえている」