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2014年8月24日日曜日

「いいか、俺と編隊を組んだら、

絶対にお前たちジャク(若年搭乗員)が敵を墜とそうなんて考えるな。敵機は俺が墜とすから、とにかく俺について来い。俺が撃ったら、お前たちも、敵は見なくていいから同じように撃て。そしたら協同撃墜になるんだから」
そう、これはかつて、杉田(庄一)がまだ「ジャク」の頃、宮野(善治郎)大尉が初陣の列機に与えたのとまったく同じ注意であった。

宮野機帰らず

「宮野(善治郎)大尉が煙を吐いた中村(佳雄)二飛曹機に不時着の指示を与え、空戦場に引き返してきた後、二度見た。翼端が切ってあり(三二型)、胴体に黄帯二本のマークのついた隊長機が飛び回っているのを見ましたよ」
(八木隆次二飛曹回想)

乱戦の中で二度、八木が見たのを最後に、宮野機の行方は杳として知れなくなった。

宮野の最期の状況については判然としない。

宮野と森崎(武予備中尉)、二◯四空で二人だけの士官搭乗員が二人とも帰らなかったのは、隊員たちにとって大きな痛手であった。

零式艦上戦闘機三二型

「艦爆危うしと見るや、救うに術なく、

身をもって敵に激突して散った戦闘機、火を吐きつつも艦爆に寄り添って風防硝子を開き、決別の手を振りつつ身を翻して自爆を遂げた戦闘機、あるいは寄り添う戦闘機に感謝の手を振りつつ、痛手に帰る望みなきを知らせて、笑いながら海中に突っ込んでいった艦爆の操縦者。泣きながら、皆、泣きながら戦っていた」
(同、大野中尉)

「今や艦爆隊を守り通すために、

戦闘機は自らを盾とせねばならなかった。降り注ぐ敵の曳痕弾と爆撃機の間に身を挺して、敵の銃弾をことごとく我が身に吸収し、火達磨となって自爆する戦闘機の姿、それは凄愴にして荘厳なる神の姿であった。一機自爆すれば、また一機が今自爆した僚機の位置に代わって入って、そして、また、敵の銃弾に身を曝して爆撃機を守った。」
(直掩任務を帯びた二五一空・大野竹好中尉の遺稿)

2014年8月23日土曜日

戦いには必ず「優位戦」と「劣位戦」とがある。

こちらが優位に立っているときと劣勢の場面とでは戦い方が違う。

日本海軍は階級重視で、兵学校を卒業した士官が指揮官として率いていく。指揮官機が状況をわきまえず、勇ましく右へ上昇旋回していくと、坂井(三郎)をはじめベテラン・パイロットたちは、そんなことをしたら敵が上から降ってくるから、と迷う。一部は命令とは反対に左下へ旋回して敵の腹の下へもぐりこむ。そうしていったん敵をやりすごさなければいけない場合だってあることを隊長は知らない。こんな隊長のあとをついてったら全滅する。その隊長は、実戦経験もなく、現場の意見も聞こうとしないから、学校で教わったとおりのことしかできない。学校で教えているのは、かつて零戦がF4Fよりも上昇力その他にすぐれ、機数も多く、パイロットの飛行時間も長かったときに出来上がった優位戦の戦術戦法だった。それを覚えてきた編隊長が、サッと勇ましく右へ上昇旋回しても、何機かはついていくが、おおかたのベテラン機は左下へ回り込んでしまう。もちろん、戦闘が終わって帰ってくると、「なんでお前らは俺のあとをついてこないんだ、軍法会議に掛けて処分するぞ」とものすごく怒られる。

2014年8月17日日曜日

ラバウルにいた五八二空司令・山本栄大佐は、

のちに特攻隊を初めて出した二〇一空司令を務めるが、実に部下思いの情に厚い司令であった。
山本大佐は、戦の無聊を慰める意味もあってか、日記の随所に横文字を漢字に直した「ネイビー当て字」とでも言うべき珍語(?)を残している。

羅春(ラバウル)
乳振点(ニューブリテン)
武加(ブカ)
華美園(カビエン)
乳愛留蘭童(ニューアイルランド)
仙乗寺岬(セントジョージ岬)
防厳美留(ボーゲンビル)
部員、武殷、武允(いずれもブイン)
羅江(ラエ)
羅美(ラビ)
武奈(ブナ)
婆抜、晩愚奴(いずれもバングヌ)
岳海(ガッカイ)
猪威勢留(チョイセル)
部良良部良(べララべラ)
古倫晩柄(コロンバンガラ)
乳情事屋、入城寺屋(いずれもニュージョージア)
伊佐辺留(イサベル)
毛野(モノ)
都楽(トラック)
寝損岬(ネルソン岬)
漏須美(モレスビー)
我足可也(ガダルカナル)

「昭和十七年秋、私たちがブインに進出した頃は、

まだ敵の戦闘機に対し、十分な自信と実績を持っていた。たとえば、二十機対二十機なら必ず勝てる。味方が六割ぐらいの場合なら互角の勝負、というのが、当時の私たちの自信であり、目安であった」(小福田少佐)
ガ島航空撃滅戦は、まさに航空消耗戦であった。疲労と消耗は、熟練搭乗員の相次ぐ戦死と交代要員の未熟、それによる全体の戦力低下の悪循環を呼んでいた。零戦の生産量と搭乗員の養成は、この消耗戦にまったく追いついていなかった。搭乗員の交代はおろか、休養すら与えられない。ソロモンは搭乗員の墓場となりつつあった。

2014年8月16日土曜日

南太平洋海戦

ミッドウェー海戦の時、飛龍雷撃隊で敵空母ヨークタウンに魚雷を命中させた丸山泰輔一飛曹は、この攻撃(隼鷹艦攻隊)でもホーネットに魚雷を命中させている。
「雷撃というのは、サッカーと同じで、チームプレーです。あっちから攻め、こっちから攻めして初めてゴールできる。私の魚雷が命中したといっても、単機で攻撃したのではうまくいくはずがありません。これは、敵戦闘機や対空砲火を引き付けてくれて戦死したみんなの力なんですよ」(丸山一飛曹談)

出撃前のブイン基地で、

宮野(善治郎)は、実戦では初めて三番機を務めることになった大原亮治二飛に注意を与えた。
「いいか、今日は必ず会敵する。空戦になるから絶対に俺から離れるな。俺が宙返りしたらその通りにやれ、お前は照準器は見なくていいから、俺が撃ったら編隊のまま撃て。すべて訓練と同じ要領だ。わかったな、しっかりやれよ」

「この隊長のためなら」と、

部下を喜んで死地につかしめる人間的魅力、これを「将器」という。戦闘機隊指揮官たる者の条件は、ただ操縦がうまいだけ、敵機の撃墜機数が多いだけではない。年齢や飛行時間でもない。この頃の宮野(善治郎)には、本人が持っていた素質にこれまでの実戦経験が加わったこともあってか、会った瞬間に部下の心を理屈抜きに掌握してしまう、戦闘機隊の将たる器が自然に備わっていた。

2014年8月15日金曜日

加賀を発進し、二番索敵線を担当した、

九七艦攻としては唯一の索敵機の機長、吉野治男一飛曹(甲二期、のち少尉)は、今も憤りを隠さない。
「雲の上を飛んでいて、索敵機の任務が果たせるはずがない。私のこの日の飛行高度は六百メートルです。低空を飛んで、水平線上に敵艦隊を発見した瞬間に打電しないと、こちらが見つけたときには敵にも見つけられていますから、あっという間に墜とされてしまう。敵に遭えば墜とされる前に、どんな電報でもいいから打電せよと私たちは教えられていました。たとえば、『敵大部隊見ゆ』なら、『タ』連送、『タ』『タ』『タ』そして自己符号。それだけ報じれば、もう撃ち墜とされてもお前は殊勲甲だと言うんですよ。それなのに、雲が多くて面倒だからと雲の上をただ飛んで帰ってくるなんて、言語道断です。本人は生きて帰って、戦後そのことを人にも語っていたのですから、開いた口がふさがりませんね」

2014年8月13日水曜日

「まかりならぬ」の一言

「本日の攻撃において、爆弾を百パーセント命中させる自信があります。命中させた場合、生還してもよろしゅうございますか」
彼が言い終えるや否や、(宇垣)長官は即座に大声で答えられた。
「まかりならぬ」
の一言であった。
「かかれ」
……

「岩井、元気で生きていたか。

こうなってきては、古い搭乗員が減ってしまってどうにもならん。気をつけて長生きしてくれよ。おれは今日内地から来た。要件があってダバオへ行く途中だ」
「お気をつけて下さい」
これだけの言葉を交わして別れた。進藤少佐は、昭和十五年の日華事変当時、零戦十三機を率いて重慶を攻撃し、敵戦闘機二十七機を撃墜という輝かしき戦果をあげたときの指揮官であった。

それにしても、中島大尉の

やり方はまずかった。彼は自らの接敵運動のまずさから、初陣において自らの生命を絶った。
彼は射撃の基本である反航接敵、後上方攻撃しか修得していなかったのではなかろうか。
敵を発見したとき、自分が敵より一五◯◯メートルも下方にいながら、敵の目前を、敵より低速でフラフラと上昇し、わずか一◯◯メートルくらいの高度差で切り返し、敵の指揮官機を狙ったのであろうが、自分に速度がないため反覆攻撃ができず、やむを得ず敵編隊の下方へ避退するより方法がなかった。しかし速度不足のため、すぐ敵に食いつかれ、火を噴いてしまったのである。
接敵運動の良否は、勝敗の七割を決するのである。指揮官機たる者は十分心すべきことである。

2014年8月12日火曜日

比島沖海戦

「わが機動部隊の任務は、レイテ湾に突入する目的をもって、ボルネオ方面より北上しつつあるわが連合艦隊が、目的を完全に達成し得るよう、側面からこれを援助し、連合艦隊の行動を容易に導くためのものである。わが艦隊は全滅するとも、この主力部隊の行動を支援する決意である。マニラにある二◯一空の戦闘機隊は、搭乗員の熱烈なる志願の結果、爆弾を搭載して敵空母に体当たりすることが決定した(これは関行男大尉らのわが国最初の特別攻撃隊敷島隊を指す)。諸子は小官の意を諒とし、決意を新たにして任務を全うせよ」
私はこの小沢長官の訓示を目前で聞き、いよいよ来るべきものが来たなァと思った。

訓練時において私(岩井 勉)たちは、

自分より上官である士官を列機に従えて離陸し、空戦を教え、射撃を教え、帰着後、
「あなたは今こんなことをされたが、あんなことをしてはいけません。実戦の場合には落とされてしまいますよ」
と丁重に注意する。もちろんこれらの上官は、
「そうですか、注意します」
と素直に答えてくれるが、これが一度出撃するとなると、彼らは私たちの指揮官としてわれわれの前に立ち、敵地に誘導し、敵機と第一撃を交えるまでは、彼に従わざるを得ないのである。
檜舞台において主従が交代し、指揮のまずさから不利な空戦を強いられ、出さずにすむはずの犠牲を多く出したことは、海軍の制度の誤りがそうしたのであって、数々の反省事項中、最も大きく指摘されなければならない点であると考える。

艦隊が之ノ字運動をやりながら警戒航行中、

見張り員が突然、
「右三◯度潜望鏡」
と叫んだ。今まで、之ノ字運動ながら整然と航行していた各艦は、思い思いの行動をして右往左往して混乱した。
私たちは潜望鏡の所在をつきとめようと海面に目を凝らした。しばらくして見張り員が、
「いまのはビール瓶の誤り」
と報告してきた。わずかビールの空瓶一本に、連合艦隊が肝を冷やされた一幕であった。

洋上着艦するとき、

波とうねりのため、艦尾で二メートルの上下の揺れがあるのが普通である。そのうえローリングはしているし、艦尾を左右に振っている。この三つの動きを同時にしている母艦に着艦するのだから、正に神技といっても過言でないと思う。昼間はまだしも、夜間着艦となるとなおさらのことである。

2014年8月11日月曜日

私(岩井 勉)は「い」号作戦に

全部参加したが、どの出撃のときにも、ラバウルの戦闘指揮所の前には、連合艦隊司令長官・山本五十六大将の白い夏装の軍服姿が見られた。
私は戦闘機隊なるが故に、最初に離陸し、飛行場上空で後続の攻撃隊を待つ間、砂煙の立ちこめる離陸線の付近に立たれ、最後の最後まで軍帽を振っておられる白い軍服姿が、上空からよく見えた。
この長官が、その四、五日後に戦死される運命を背負っておられるとは、誰が想像したであろうか。
山本長官戦死の前日、昭和十八年四月十七日、「い」号作戦は終了し、われわれ母艦航空隊は、ラバウルを八時発進、十二時に全機トラック島に引き揚げたのである。

「い」号作戦、昭和十八年四月十二日、

一式陸攻四十三機を戦闘機百二十四機が掩護し、ポートモレスビーを目指して一路進撃が開始された。
陸攻隊は左に九◯度変針して爆撃進路に入った。前下方に飛行場が見える。
そのうちに、ものすごい対空砲火が、われわれをすっぽり包んでしまった。
しかし、陸攻隊はこの無数の黒煙のなかを、整然たる隊形で微動だにせず進んでいく。われわれはその六◯◯メートル上空を、陸攻隊をかばうようにして進んだ。
やがて爆弾が一斉に投下された。その瞬間、右側にいた一式陸攻一機がエンジンから黒煙を吐き出した。黒煙はますます長く太くなっていく。対空砲火にやられたのだ。しだいに戦列から離れ、右方へ降下しながら、海岸に碇泊中の艦船を狙っているように身受けられる。生きることを断念し、体当たりを決意したのだろう。悲愴感が背筋を走る。

第二群と第三群が上方から攻撃を

かけてきたならば、目前の敵第一群を棄てて、新たな敵に向かって、下から突き上げていかなければいけない。敵はたとえ優位であっても、下からまっしぐらに頭をもたげて反撃してくる戦闘機はやはりこわい。敵の射弾は、いちばん先頭に立って反撃するこの機に集中して危険ではあるが、しかしこれを敢行しなければ味方がやられてしまう。
またこのとき、まともに撃ち合ってはいけない。撃ち合うようなマネをしながら、敵機の射弾をそらしつつ、優位に立つべく、じわじわと逆転のチャンスを狙うのである。急上昇反転を二回もやると、若い列機も気がついて、新しい敵にかかっていく。

2014年8月10日日曜日

列機B-17に体当たり

「い」号作戦、 昭和十八年三月三日、瑞鳳戦闘機隊はニューギニアのラエへ向かう輸送船団の上空哨戒のためカビエンを発進。
私(岩井 勉)の列機の牧正直飛長は、このときB-17に体当たりを敢行し、双方の機体が二つに折れ、卍巴(まんじどもえ)になって落下していった。
要塞と敵の誇れしボーイング、
墜とすは誰ぞ、あゝ体当り
牧飛長は後日、二階級特進の栄に浴し、その武勲は全軍に布告された。

2014年8月9日土曜日

開戦日は、とくにハワイ空襲に

好都合な条件を考えて、すでに陸海軍作戦当局者の間で決定されていた。米艦隊が多く碇泊し、油断しがちな日曜日、そして攻撃隊発艦に便利な残月が日出前まで輝く日ーー十二月八日である。十一月七日、山本五十六連合艦隊司令長官は、準備命令とともにY日(開戦概定日)を指示した。
機密連合艦隊命令作第二号
昭和十六年十一月七日 佐伯湾旗艦長門
連合艦隊司令長官 山本五十六
連合艦隊司令
第一開戦準備ヲナセ
Y日ヲ十二月八日ト予定ス(終)