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2015年12月27日日曜日

「戦死者、出ましたねえ。

ここの戦闘というのはね、ちょうど、たとえて言えや、如露(じょうろ)の口から水が出るような弾幕でしてね。弾がね、ポンポン、パ、パ、パ……あるいはタタタ……というような戦闘の実相じゃないんですよ。敵サンのはね、狙って撃つんじゃなくて、その如露で水ひっかけるみてえに、弾あ撃つんですね。ありゃ本当の弾幕って奴ですよ。とにかく、顔をあげられるどころの騒ぎじゃなかったですね」(当時、歩兵第二百三十聨隊第一大隊第四中隊第三小隊長、川口五朗氏)
『ガダルカナル戦記』

2015年12月26日土曜日

「『川口はクビだ』って、もうその場で言いましたね。

そこで東海林部隊長がすぐ電話に出たわけです。東海林さんは、『敵前でそんな無茶なことを……』と絶句されましてね。参謀長も何やら興奮した語調でしたし。参謀長、これはまあ陸大出やし、東海林さんは陸大出とりませんけれども。やれ、困る、というような問答があって、今度は丸山師団長の声に変わったんですね。『以後おまえが指揮を執れ』で、これはもうツルの一声です」(同、鎌田修一氏)
『ガダルカナル戦記』

「突入前に、右翼隊長である川口清健少将が罷免

になりました。あれね、(十月)二十四日のことですが、今夜突撃するのに、一体全体どっちの方角へ向かって突入していいか、皆目見当もつかんのですね。視界ゼロですねん。みんな、こんなバカなことがあるか言うておった。川口さんが臆病であるとか何とか、辻政信氏からいろいろ罵倒されていますけれどもね。誰だって、無茶だと内心で思うとります。もちろん、東海林聨隊長が一番よく知っとられますよ。今夜突入するというのに方向すらわからんということをね、まあ川口さんが代弁してね、われわれの気持ちを。日延べしてくれと師団司令部に要求したんです。そしたら、第二師団玉置参謀長から電話がかかってきたんです」(当時、歩兵第二百三十聨隊乙副官兼電報班長、鎌田修一氏)
『ガダルカナル戦記』

「今夜は間違いなく無電にて『バンザイ』を送る」

意気盛んな辻(政信)参謀の報告を真に受けた軍は、(昭和十七年十月)二十三日深夜、大本営、ラバウルの宮崎軍参謀長、トラックの聯合艦隊司令部に対し、「第二師団は敵に発見せらるることなく、敵に近迫(ママ)中なり。第一線よりの報告によれば予定時刻に突入しうる状態にあり」という電報を打った。この無電を受けた大本営以下では、全員が鶴首して、次に入ってくるであろう「飛行場奪回なる」の吉報を待った。
『ガダルカナル戦記』

2015年12月5日土曜日

「結局、物の考え方の次元が違っていたんでございますよ。

そしてアメリカ軍というのは大変な軍隊だということは、実際に突入していって、彼らのすさまじい応戦を肌で知ったんですがね。
……
十対一か、あるいは、ときとして百対一くらいかもしれんと思いたくなるような、それほどの戦力の差があった」(同、勝股大尉)
『ガダルカナル戦記』

「戦前にアメリカにおった駐在武官がですね、

その方が報告したものを印刷したんでしょうがね。これを要するに、戦争を始めるにあたって印刷したのでしょうね。これによると、アメリカ軍というのは、われわれのごとき軍隊とはまるっきり感じが違っておるんだと。まあ、朝もゆっくり起きて訓練を始めると、そして午前中に切り上げると、要するに猛烈な演習なんてのはやらないんだと。しかし、あんまり敵をバカにしていませんかね、と私たちは当時すでに感じたものでした。といっても、反駁のしようもない。こっちはアメリカ軍をまったく知らないんだから。このようなのが上陸前の状況でしたな。それから上陸したんですが、たちまち対空戦闘が始まってねえ、私ら歩兵が対空戦闘やらにゃならんというのは、こりゃ初めての体験ですよ。そういうことで、アメリカ軍とは何ぞや、ということを書いてあったパンフレットが、この時点ですでに役に立たなくなっておるじゃないかと」(当時、二十九聨隊第三大隊第十一中隊長、勝股治郎大尉)
『ガダルカナル戦記』

2015年11月29日日曜日

昭和十六年十一月二十六日、南雲の機動部隊は

雪の単冠湾から、最終目的地へ向かい三千マイルの征旅についた。
『真珠湾のサムライ 淵田美津雄』

2015年11月28日土曜日

スターリンの質問にたいして答えたジューコフの見解は、

あっぱれな正答である。
「日本軍の下士官兵は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である」
『ノモンハンの夏』

「生き地獄というものがあるでしょ。

あれですよ。タマに当たって死んだというのは何パーセントかで、マラリアと脚気でね。前にもね、ガ島の話を聞きたいというのが来たけどね、私は一週間ぐらい絶食して来てくれ、といったんですよ、うん。ガ島の話っていうのはね、要するに、とても二時間や三時間で話し尽くすことなんかできる問題じゃないですよ。半年間ですよ、そんなもの一日や二日で話なんかできやしませんよ」(当時第二師団歩兵第四聨隊第一大隊第三中隊、陸軍兵長、山田辰雄氏)
『ガダルカナル戦記』

2015年11月23日月曜日

昭和陸軍

総辞職した若槻礼次郎民政党内閣に代わり、昭和六年十二月十三日、犬養毅政友会内閣が発足した。陸軍大臣には荒木貞夫が就任。宇垣派が失脚し、陸軍の組織的政治介入を必要と考える一夕会により、陸軍における権力転換が実現した。「昭和陸軍」の始まりである。

2015年11月22日日曜日

このときのわれらの姿を客観視すれば、

さぞかし昔語りに出てくる手拭で頰かむりをした狐の嫁入りそっくりであったろうと思う。しかし、敵サンは、われわれの隠密裡の行動を、“狐の嫁入り”と見逃してはくれなかった。それは言語を絶する砲弾の洗礼であった。暗闇の中に折り重なって伏せてはいるが、心許なく、どこかに窪地はないものかと気を配る。砲弾は、周囲の樹木を薙ぎ倒し、その破片は容赦もなく戦友を死に至らしめ、あるいは傷つける。各小隊とも、てんでんばらばらである」(当時、歩兵第百二十四聨隊第三大隊第九中隊第一小隊、陸軍上等兵山本力三氏)
『ガダルカナル戦記』

「大隊長は国生ちゅう少佐やったですがね。

このひとが、すでにこのころ、『こりゃもうダメだな』と言うとりましたわ。自分はこれはもう戦死覚悟だ、と言うてました。この言葉が、現在でも非常に印象的ですな。それちゅうのはね、敵の飛行機ばかりが上空を乱舞して味方の飛行機は影もかたちも見えんし、基地を強化するための資材や武器弾薬を積んどるであろう敵の輸送船もね、あたりはばからず次々と入ってきておるしね」(当時、歩兵第百二十四聨隊第一大隊付主計、陸軍主計少尉牧凞氏)
『ガダルカナル戦記』

「松山(明太郎)中尉がね、

『こりゃ今度の戦闘で、尉官クラスが生き残るのは誰かなあ』という意味のことをポッツリ洩らしましてね。道々ね。それくらいね、ムシが知らすという表現は適切ではないかもしれんが、上陸以来の敵機の跳梁、そのほか周囲の環境でね、こりゃ容易ならん戦場だと、われわれはすでに攻撃決行前に思っておったですね」(当時、歩兵第百二十四聨隊第一大隊第二中隊第一小隊長、永井憲三氏)
『ガダルカナル戦記』

2015年11月8日日曜日

一木先遣隊壊滅

突撃が開始されたのは、(昭和十七年八月)二十一日の未明であった。砂州を越えようとしたとき、左前方から猛烈な弾幕が飛んできた。一部には、対岸に辿り着いて鉄条網の内部に進入したものもあったらしいが、大部分は砂州の前後に折り重なって倒れた。敵の集中砲火には、迫撃砲、榴弾砲らしきものが加わりはじめた。
……
やがて敵の一部が、中川(イル川)の上流を渡って進出し、迂回して一木支隊の背後から襲撃してきた。これがほぼ午前十時ごろのことである。右側は海であり、一木支隊は完全に包囲されたかたちになった。午後になって、敵は水陸両用戦車をくり出してきた。戦闘が終熄したのは午後三時ごろのことであったといわれる。全滅といってよい敗北であった。
『ガダルカナル戦記』



「小銃と機関銃だけじゃ大変でしょう。

するとくだんの中隊長いわく、『われわれは夜戦の斬り込み攻撃をやるので、心配いりません。また、従来の三八式銃ではなくて、九九式という新鋭小銃を下賜されておる。このように立派な銃をあずかっている限り大丈夫である』そのように士気は極めて旺盛だった。われわれ『陽炎』乗員も、成功を祈る気持ちは一杯で、中隊長がああ言うなら大丈夫だろうと思ったりもした」(駆逐艦陽炎水雷長、高田敏夫氏)
『ガダルカナル戦記』

2015年11月3日火曜日

東部ニューギニアの要地として執着した

ポートモレスビーに対する攻略も、(ガダルカナル奪回と)ほとんど同時に失敗した。眼下にポートモレスビーの夜景を見下ろすところまで到達しながら撤退を余儀なくされ、二度と再び、日本軍がその地の土を踏むことがなかったことは、周知のとおりである。敗れた原因は、これもガ島の場合と同じく、補給の問題を軽視したからである。
『ガダルカナル戦記』

2015年10月18日日曜日

第一段作戦終了までの物量の喪失は、

ほぼ戦前の見込みどおりであったが、その後は文字どおり日を追うにしたがって末ひろがりに予想を外れていった。しかも、艦隊決戦の思想にすがりついて、長期に移行する戦争の性格を見通せなかった――あるいは見まいとした――責任の体系は、前にも触れたようにないのである。が、そのために、ジレンマに苦しみながら死んでいった多くの同胞がいる。
『ガダルカナル戦記』

2015年10月4日日曜日

「ま、よく生きて帰った。よかった、よかった」

「海軍さんのおかげです。海軍さんは、救命胴衣も持っておりません。それでも陸軍の兵隊を救けようと、最後まで手助けしてくれたのです……海軍さんは、大方、死んでしまいました……」
涙になり、話はとぎれた。
こういう第一線の陸兵と海兵の互助精神は、戦場のいたるところでみられた。が、上層部では、常に陸軍と海軍の対立意識がにらみ合っていた。これはどういうことか……。
『ガダルカナル決戦記』

2015年10月3日土曜日

後世まで伝えられるべき一部指揮官の人間性

死守の命令に抗して部下を助けたミートキーナの水上源蔵少将

陸軍史上初の「抗命」を冒して撤退したインパールの佐藤幸徳師団長

戦犯として服役中、部下の釈放を見届けてから自決したニューギニアの安達二十三(はたぞう)中将
『太平洋戦争の肉声』

日本陸軍の聖域 参謀本部作戦課

当時、稲田(正純)大佐(参謀本部作戦課長)は、よく直接大臣に短絡して事をきめる癖があり、このときも直接大臣に報告するので、それに立会うことになった。稲田大佐の報告では、要するに騎兵隊の仇討に第二十三師団の主力を派遣して「ソ」軍を一たたきするというのであった。報告が終った。岩畔(豪雄)(陸軍省)軍事課長がまさに発言しようとしたとき、板垣(征四郎)大臣は「よかろう」と、あっさり稲田大佐の意見に同意してしまった。大臣が同意すればそれまでである。これで「ノモンハン」の戦闘が始まることになった。
『昭和戦争史の証言 日本陸軍終焉の真実』

2015年9月26日土曜日

作戦の末路

牟田口の訓示
「三一師団の佐藤の野郎は、食うものがない、撃つ弾がない、これでは戦争ができないというような電報をよこす。日本軍というのは神兵だ。神兵というのは、食わず、飲まず、弾がなくても戦うもんだ。それが皇軍だ。それを泣き事言ってくるとは何事だ。弾がなくなったら手で殴れ、手がなくなったら足で蹴れ、足がなくなったら歯でかみついていけ!……
長広舌を聞くうちに、将校たちはフラフラになり、バタバタとその場に倒れたという。
『責任なき戦場』

「諸士のあとにつづく、と司令官の方は

言いました。われわれもつづく、という言い方をされたと聞いていますが、なんと残酷なことを言うのでしょうか。本当にこの方たちはつづきましたか、兄たちへの約束を果たしたでしょうか。そういういいかげんな言葉を弄ぶような人たちに対して、兄たちはどういう感情をもっているでしょうか」(上原良司氏の妹 上原清子氏)
『戦場体験者 沈黙の記録』

諸士の攻撃は必死の攻撃である。

しかし、諸士が戦場で死んでも、その精神は、かの楠公が湊川におけるがごとく、必ず生きる。特攻隊は、あとからあとからとつづく。また、われわれもつづく。特攻隊の名誉は、諸士の独占するものではない。各部隊がみんなやるのだ。諸士だけにやらせて、われわれがだまって見ているというのではない。ただ、諸士に先陣として、さきがけになってもらうのである」(第6航空軍司令官 菅原道大中将)

司令官のその内容はあまりにも得手勝手、国家のエゴイズムをそのまま代弁しているにすぎない。
……
司令官に代表される軍事指導者たちの無責任と無答責の姿勢を歴史の中に正確に刻みこんでおかなければならない。
『戦場体験者 沈黙の記録』

2015年9月20日日曜日

「体面」や「保身」、

組織内融和の重視や政治的考慮は、必要以上に作戦中止の決断を遅延させ、雨季の到来や補給の不備とあいまって、現地部隊に過酷な戦闘を強いたのであった。
『失敗の本質』

2015年9月13日日曜日

救助の方法すでになし

「つぎつぎ斃れだした」
との悲報がくる。ああ持ち場を死守して、ついに最悪の状態にたちいたったか。
「なんとかして機械室から上がれないか」
いまとなっては、それもかなわぬだろう。
「何かいい残すことはないか」
と思わず断腸の思いで連絡させた。
「なにもない」
とすぐ返事がもたらされた。
従容(しょうよう)として、持ち場を死守するものの声である。(元第二航空戦隊参謀・海軍中佐  久馬武夫)
『証言 ミッドウェー海戦』


2015年9月8日火曜日

五・一五事件

軍部大臣がその部内から首相暗殺犯人を出しておきながら、そのまま次の斉藤内閣に留任した如きは、理由は何とでもつくにしろ、少なくも他人の心の底に割りきれぬ何物かを残したことは争えない。
軍が真に国民と共に在るためには、軍上層部はさらに一層謙虚であってほしかった。
『昭和戦争史の証言 日本陸軍終焉の真実』

上級者の不勉強

東条(英機)大臣などはこの点からすれば確かに異色だった。高級課員級に至っては仕事の実際を知らずに観念論をやるのが多いのも困ったものである。こういう人達が一般論できめるものだから、班長以下のする仕事は高級課員以上の仕事と遊離してしまうことが多かった。
『昭和戦争史の証言 日本陸軍終焉の真実』

人事

補任課は以前は各方面の人が入れ替っていたが、近ごろは一種の人事屋なるものができ上り、しかも狭い視野で独善的に人事をきめる癖があった。所轄人事の一元化で無理をした結果、歩兵の将校で精々士官学校の区隊長くらいの経験しかないものが各方面の人事の専権を振うようになった。軍の能率をこれがために阻害したことは幾何(いくばく)なるかを知らない。
『昭和戦争史の証言 日本陸軍終焉の真実』

2015年9月6日日曜日

大本営作戦課長で、東條英機陸相の秘書官をつとめた服部卓四郎は、

戦後はGHQ歴史課の職員にもなり、当時飢えの中にいた日本国民とはまったく逆にアメリカの物資を与えられて考えられないほどの贅沢な生活をした。加えてGHQの威光のもと、日本陸海軍の軍人を次々にGHQに呼びつけて戦史の記述を進めた。むろんこれはアメリカの意に沿うと同時に、自分たちの軍事戦略を正当化するための資料づくりでもあった。
『戦場体験者 沈黙の記録』

参謀たちの戦史は、自分たちは

この戦争でこういう状況認識をもって、このような命令を下したという内容がほとんどであり、現場での戦闘準備がわるかったとか戦争に対する認識が甘かったなどとの理由をつけて、自らを免罪する内容が多かった。
つまり自己弁明型なのである。
『戦場体験者 沈黙の記録』

やがて広島と長崎に原爆が落とされ、

ソ連軍が奉天に達したときは、日本の無条件降伏で戦争は終っていた。真っ先に入ってきたソ連軍の兵士は、手の甲に入れ墨のある囚人部隊で、略奪暴行のかぎりをつくした。若い女性は頭を丸刈りにして床下に隠れ、ピストルを突きつけられた私は、膝ががくがく震え、大和魂どころではなかった。(ジェームス三木氏)

2015年8月16日日曜日

辻が、戦況が思わしくなくなると、

中央連絡などと称して逃げ出してはスタンド・プレイをやっているのを、苦々しげに、
「あんな者をのさばらせておくから駄目なんだ」
と言っていたことがあるそうである。
『山本五十六』

2015年8月9日日曜日

兵士を単に戦時消耗品とみる気質

その具体的例としては、つねに歩兵重視の肉弾攻撃にとらわれていたこと、兵士を無機質の兵器に育てることに懸命になったこと、補給、兵站思想をないがしろにしたこと、などによくあらわれている。意味もなく兵士たちに玉砕を命じ、それに対して自省もなく次つぎにその種の作戦を命じたこともあげられる。
『昭和陸軍の研究』

太平洋戦争時に陸軍の指導部に列した軍人は、

だいたいが明治十年代中期から二十年代後期にかけての生まれである。

陸軍幼年学校、陸軍士官学校、そして陸軍大学校と、陸軍の教育機関を優秀な成績で卒業している。つまり成績至上主義のこのような機関で相応の成績をあげていた。さらに彼らには、実戦体験が希薄であった。

太平洋戦争を担った軍事指導者の共通点のもう一点は、親ドイツ、反米英、という考えに固まっていたことである。

さらにもう一点加えるなら、昭和陸軍の軍事指導者は〈人間〉に対しての洞察力を著しく欠いていた。哲学的、倫理的側面から人間をみることはできず、単に戦時消耗品とみる気質から抜けだすことはできなかった。
『昭和陸軍の研究』

八月十四日の御前会議

「このさい、自分のできることはなんでもする。国民はいまなにも知らないでいるのだから、とつぜんこのことを聞いたらさだめし動揺すると思うが、自分が国民に呼びかけることがよければ、いつでもマイクの前にも立つ」(四十四歳の陛下)
『日本のいちばん長い日』


2015年8月6日木曜日

「このような武器がつかわれる

ようになっては、もうこれ以上、戦争をつづけることはできない。不可能である。有利な条件をえようとして大切な時期を失してはならぬ。なるべくすみやかに戦争を終結するよう努力せよ。このことを木戸内大臣、鈴木首相にも伝えよ」(昭和天皇)
『日本のいちばん長い日』

八時十五分、烈しい閃光とともに

大爆発が起った。一発の爆弾が四十万の人間にもたらしたものは、〈死〉の一語につきる。広島市は瞬時にして地球上から消えた。
『日本のいちばん長い日』

2015年8月1日土曜日

部下を統率するに権威をもって

無理押ししたり、権謀術数をもって籠絡するような、不自然なことまでして服従させようとする人では、中尉はなかった。曽根准尉のエピソードはそれを如実に物語っている。
ここに若林(東一)勇猛中隊の「団結」の秘密があったとみることができる。どこまでも裸の人間同士の結びつきでゆく、自然な合理的な行き方であった。
『列伝 太平洋戦争』

最前線で戦った将兵はいつだって

忘れられている。でも、ほんとうにあの苛烈にして悲惨な戦争をよく戦ったのは、将軍や提督ではなく、これら名もなき人びとであったのである。
『列伝 太平洋戦争』

2015年7月25日土曜日

戦争を一方の側から見るのではなく、

敵―味方の双方から複眼的に見ることは必要なだが、さらにその対立項からこぼれ落ちる第三項を無視するわけにはゆかない。ビルマにおいても、フィリピンにおいても、日本軍と英国軍、日本軍と米国軍の抗争の戦場には、当然のことながらビルマ人、フィリピン人という"先住民"がいたのだが、「戦闘」の場面ではそれはほとんど無意識的に忘却される。
『戦争文学を読む』

2015年7月5日日曜日

一撃で予想外の戦果をあげ、

ほとんど無傷でひきあげたことは、日本海軍の多くのリーダーたちを、戦果が自分らの才覚と実力によるものと錯覚させて思いあがらせ、無防備の敵にたいする闇討ちのせいであったことを忘れさせた。
『勝つ司令部  負ける司令部』

2015年7月4日土曜日

国家への忠誠心といえば聞こえはよいが、

これは火力にたいする銃剣による白兵主義への賛美に他ならない。砲兵力に対抗する手段を持たないために、工兵隊は肉弾をもってそれに代える。なるほど一瞬の成功を結ぶかも知れないが、兵は無駄死にという外はない。
『特攻とは何か』

「こんなことを言ってはいけないんでしょうが……

大西(瀧治郎)中将は、手の握り方ひとつとっても、心がこもっていて、特攻隊員とともに自分も死ぬのだという気魄が伝わってくるようでした。でも福留(繁)中将は豪傑風な笑みを浮かべながらも搭乗員の目をちゃんと見ない。手の握り方もなんとなくおざなりな感じで……、傍で見て感じたぐらいですから、搭乗員にはもっと敏感に伝わったのではないでしょうか」(門司親徳主計大尉)
『特攻の真意』

「こんなことをせねばならぬというのは、

日本の作戦指導がいかに拙いか、ということを示しているんだよ。――なあ、こりゃあね、統率の外道だよ」(大西瀧治郎中将)
『特攻の真意』

2015年7月1日水曜日

「『全滅を覚悟の最後の決戦』と聞かされ、

そのために大勢の部下を死なせてきたのに、この期におよんで逃げ出すとは、何が『決戦』かと、心底腹が立った」(六五三空飛行長・進藤三郎少佐)
『特攻の真意』

「海軍上層部もきわめて幼稚だったと思うし、

上に言われるがままに、部下に(特攻)出撃を命じた私も、最低の人間だったと、九十歳を過ぎたいまにして思います……」(二〇一空 ダバオ基地司令官・横山岳夫大尉)
『特攻の真意』

2015年6月28日日曜日

断っておくが、軍司令官、参謀長には

代理という想定はない。辻(政信)はみずからが課長、参謀長、軍司令官になりすましている。陸軍刑法にいう擅権(せんけん)の罪に当る。辻にあっては統帥権の尊厳など毛頭感じてもいなかった。
『ノモンハンの夏』

満州事変以来、軍は

外には独断専恣、内には「国家革新」という名に軍紀はみだれ、その統帥はゆるんでいた。
『統帥権とは何か』

しかもその幕僚は

幕僚道として「諫言」を第一とする。だが、その諫言には謹慎が伴わねばならないのに、その謹慎と謙虚は下克上と驕慢によって失われていた。
『統帥権とは何か』

2015年6月21日日曜日

山県支隊派遣の報告を受けた関東軍司令部も、

大内大佐(参謀長会議で新京へ出張中)の考えを是として、磯谷参謀長名で、「派兵の再考をすすめる」電報を打ち、同時に大内大佐からも、同じ趣旨の意見具申電報を発信させた。
……

辻に「(小松原)師団長の善良な人柄は、軍のこのような電報(磯谷名の電報)に対しても、なんら悪感情を抱かれなかったのである」と"べたほめ"されているから、相当のものだ。辻に褒められるような師団長では、部下は大抵たまったものではない。
『ノモンハン事件』

辻参謀はドスの利く低い声で山県支隊長に向かい

「あなたは、この後始末をどうするつもりですか」と問いかけたが、支隊長は沈黙したまま。……「あなたの用兵のまずさによって、東中佐を見殺しにした。あなたにとっては、東中佐は同期でもあるでしょう。まずい結果になったものだ」と、作戦の失敗を転嫁、糊塗するかの如く、恫喝にも似た強圧と懐柔をもって支隊長に迫った。
『ノモンハン事件』

当時、極東ソ連軍と日本軍の兵力比は三対一と

推定されていた。しかもソ軍は重装備近代式の軍隊だったが、日本軍といえば、ほとんど日露戦争当時のままの装備・戦法でしかなかった。陸軍内のソ連通といわれた人々は、こうした実情を憂えて、機会あるごとに警告していたが、軍部内には不可解な"対ソ軽視"の気風がみなぎっており、ソ連通の人々は"先覚者"ではなく"恐ソ病"というレッテルを貼られて、とかく軍の主流からは、はずされてしまう実情だったのである。
『ノモンハン事件』

2015年6月20日土曜日

豊田(聨合艦隊司令長官)は

午後六時十三分、全作戦部隊に宛てて、
<天佑ヲ確信シ全軍突撃セヨ>
との激励文を打電した。
掛け声は勇ましいが、「天佑を確信し」という言葉に、日本海軍の末期的状態がよく表れている。もはや、作戦の成否は「天佑」すなわち神頼みだと言っているにひとしい。「武蔵」の生存者救助に当たった駆逐艦「濱風」水雷長・武田光雄大尉は、その電令に接したとき、
「なんだこの命令は」
とがっかりしたと述懐している。武田は開戦以来、いくつもの海戦に参加してきたが、これほど場当たり的で具体性のない命令を受けたのは初めてだった。
『特攻の真意』

「一番機は飛行帽をつけていましたが、

二番機、三番機の搭乗員が飛行機に乗るとき飛行帽と飛行眼鏡をはずし、整備員に手渡していた。飛行帽の代わりに日の丸の鉢巻を締めていて、これはどうしたことだろうと不思議に思いました。被弾して油が洩れたり、火災を起こしたりしたら助かる見込みはないからです」(角田和男少尉)
『特攻の真意』

2015年6月16日火曜日

「報道班員、日本もおしまいだよ。

ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて。ぼくなら体当りせずとも敵母艦の飛行甲板に五十番(五百キロ爆弾)を命中させる自信がある」
『特攻の真意』

この場にいた猪口参謀、玉井副長、指宿大尉の三人

とも、自分が第一陣の陣頭指揮にあたる気概があったとは認められない。
「指揮官先頭」をモットーとしてきたはずの海軍で、決死隊ならぬ「必死隊」を選ぶのにまず列機から決め、あとから指揮官を決めるというのは話があべこべである。
『特攻の真意』

2015年6月14日日曜日

(昭和十九年)十月十二日から十六日まで

五日間にわたって続いた「台湾沖航空戦」と呼ばれる一連の戦闘で、日本側が四百機の飛行機を失ったのに対し、結局、撃沈した米軍艦艇は一隻もなく、八隻に損傷を与えただけだった。
『特攻の真意』

「あ」号作戦では、日本機の長い航続力を生かして

敵艦上機の攻撃圏外から攻撃隊を発進させる「アウトレンジ戦法」をとることになっていたが、肝心の搭乗員の練度がこれでは、そう都合よく戦いが運べるはずがない。
『特攻の真意』

2015年6月13日土曜日

大西(瀧治郎)は、

「お前たちだけを死なせはしない」とか、「俺もあとから行くぞ」などといった、偽善的で安っぽいことはけっして口にしなかった。
『特攻の真意』


2015年6月7日日曜日

将というのは、

自分の好みや趣味で、茶坊主のようなトリマキをつくってはならないのである。
『勝つ司令部  負ける司令部』

ほとんどの参謀が、「ガダルカナルってどこだ」

とさわいだ。まえに第四艦隊の航海参謀をしていた土肥一夫参謀は、ソロモン群島方面にくわしいので、ひろげた海図を前にして、
「ここですよ」
といった。しかし土肥はおどろいた。連合艦隊参謀といえば、だれもよく勉強していて、たいていのことは知っているだろうと思っていた。ところが、米濠遮断作戦の要地で、海軍航空基地もまさに完成しようとしているガ島も知らないとは、これはなにも勉強していないのだとわかり、「連合艦隊参謀とはこんなていどだったのか」と思ったからである。
参謀たちは、ミッドウェーの大敗についても、とくに反省している様子はなかった。どの参謀に聞いても、
「あー、あれは運がわるかったんだ」
と、たいしたことではないようにいうだけであった。
『勝つ司令部  負ける司令部』

犬養(毅総理大臣)の軍部への

対抗姿勢や満州国承認への消極的態度は、少壮軍人や極右勢力に強い反感を抱かせることとなり、五・一五事件が起こる。
『昭和陸軍全史1』

2015年6月6日土曜日

しかも、「体面」や「保身」、組織内融和の重視や政治的考慮は、

必要以上に作戦中止の決断を遅延させ、雨季の到来や補給の不備とあいまって、現地部隊に過酷な戦闘を強いたのであった。
『失敗の本質』

「部隊の士気(モラル)が、負傷した場合に

どれだけ早く病院に担ぎ込まれるか、その早さによって高くもなり低くもなるということは、事実でしょう。なぜ、日本軍が敗れたのかということを考えてみると、これが答えの一つになると思うのです」(ジョージ・ドナルドソン氏)
『責任なき戦場』

要するに、作戦失敗の責任は

一線の将兵の戦い方に押しつけられ、三個師団の師団長がいずれも途中で解任されるという、陸軍史上かつてない異常事態が生まれた。
『責任なき戦場』

日露戦争のために東郷(平八郎)がえらんだ

常備艦隊のおもな参謀は……

参謀長 島村速雄大佐

まれにみる秀才であるばかりでなく、私心がなく、体が大きかったように心も大きい。功はすべて他人にゆずり、けっして自分をまえに出さない。
『勝つ司令部 負ける司令部』

「いいでしょう。ただ、参謀だけは

わたしにえらばせてもらいたい。それから、戦場では、大方針は別として、かけひきはいっさいまかせてもらいたい」(東郷平八郎)
『勝つ司令部 負ける司令部』

2015年5月31日日曜日

南のインパールと北のコヒマを、

日本の地勢にたとえれば、インパールを名古屋とすれば、コヒマは飛騨高山にあたる。それくらいの距離がある。その中間に、ミッションの集落と、インパール河に架かる橋が二つある。
『遥かなインパール』


2015年5月30日土曜日

常識を超えたところで軍の力学が働きはじめ、

不可能なことを可能であるかのように錯覚するのである。この戦いの悲劇性は、今度の戦争のなかでも、その極限の例を示すが、それは上層部を形成した将軍たちの功名心と保身と政治的必要に根拠をおいていたのである。統帥の錯誤と怠慢と夢想とを、第一線の将兵は義務以上の勇気と奮戦によってあがなわねばならなかった。
『完本・列伝 太平洋戦争』


将兵は、弾薬や資材と同じように、

消耗品と考えられ、動員された兵隊は、次々と無謀な戦闘につぎこまれた。弾丸の飛ばないところで、煙草をくゆらしながら、戦争を数字でしか考えない者たちの、あずかり知らぬことであった。
『完本・列伝 太平洋戦争』

清水良雄画伯 (1891-1954) 『ルンガ沖夜戦』

事前に日本艦隊の出撃を知った南西太平洋方面海軍司令官“猛牛”ハルゼイ提督は、

一挙にこれを叩きつけてやろうと、新鋭の巡洋艦隊を派遣した。それだけに結果を知らされた時、彼はあいた口がふさがらない思いを味わったし、海戦に参加したアメリカ海軍の駆逐艦乗りは、口を揃えてこう賛嘆したという。
「癪にさわるほど立派な連中だった」
そして、世界的に有名な軍事評論家ハリソン・ボールドウィンも、戦後になって、その著書のなかで激賞した。
「太平洋の戦争をとおして日本に二人の名将がいる。陸の牛島、海の田中」
牛島とは沖縄第三二軍司令官・牛島満中将であり、この癪にさわるほど立派な海の名将とは第二水雷戦隊司令官・田中頼三少将のことであった。
『完本・列伝 太平洋戦争』



吉川(潔)艦長の勇断により、

必殺の雷撃ののち敵にうしろをみせず、夜戦の混乱に乗じて、敵中にただ一隻躍りこみ、まさに死中に活を求めて、手当り次第に敵を撃つ。右も左もすべて敵!まさか日本駆逐艦が一隻まぎれこんでいるとはつゆ知らぬ米艦隊は、いずれもはるかに遠い日本艦隊に砲門を指向して、夕立に気づくものもない。いつの間にか僚艦「春雨」の姿は消え、「夕立」だけが敵中にある。
『完本・太平洋戦争(上)』


「貴様はどこの艦の所属かッ」

何度目のことであったろう、血まみれの搭乗員は細く眼を開き、ただ一言、
「ず、い、か、く」
とだけ言い、がくっと首を垂れた。若い勇士の戦いはこの時に終わった。航海長は帽子をとると、それを両の拳に丸め、ゆえ知らぬ怒りに「馬鹿野郎ッ」と思わず大声を、泡立つ海に叩きつけた。
『完本・列伝 太平洋戦争』

駆逐艦に乗員を退艦させる「ホーネット」

未帰還機の報告を受ける時、

艦長はその場に立っておられぬほどに深く激しい悲しみのうちに、帰らざる勇士を一人一人思いだすのである。悲惨は高橋定少佐指揮の艦爆隊二十一機である。帰艦わずかに五機。艦長は思わず天を仰いで瞑目した。
『完本・列伝 太平洋戦争』

空母ホーネットに急降下爆撃中の九九艦爆

(昭和)十九年二月十七日、

防衛線の一角たるトラック島は大空襲を受け、“日本の真珠湾”は瞬時にして壊滅した。
この危急存亡に、東条英機首相がとった対策は、あろうことか、政戦略の一本化という名目で、参謀総長を兼務するという未曾有の人事だった。“東条の副官”と渾名される嶋田繁太郎海相もまた、これにならって軍令部総長の椅子を、永野修身大将から奪って兼任する無謀をあえてした。海軍部内の心ある人たちが密かに倒閣に動きはじめたのは、当然であろう。
『完本・列伝 太平洋戦争』


海上では駆逐艦マクドノー号が、

艦首の十メートル横に潜望鏡を見つけて飛び上がっていた。海底では、今、潜望鏡の十字にサラトガが合致しようとした。瞬間、マクドノー号の艦首が潜望鏡におしかぶさってきた。
方位角右一二〇度、もう待てぬ。距離三千五百。
「てッ」
五管の発射管から、次々と“蒼き殺人者”――魚雷が躍りでていった。
『完本・列伝 太平洋戦争』

2015年5月6日水曜日

十二月一日、御前会議は決定した。

十一月五日決定の「帝国国策遂行要領」に基く対米交渉は成立するに至らず
帝国は米英蘭に対し開戦す

翌二日午後五時三〇分、山本五十六連合艦隊司令長官も、すでに北緯四十度、西経一七五度付近をハワイに向かって進む機動部隊に、打電した。
「ニイタカヤマノボレ一二〇八」
「十二月八日午前零時(東京時間)を期して開戦」の命令である。

2015年3月21日土曜日

「よいか、参謀というものは

全軍の作戦指導にあたるものなのだ。それが第一線の状況に暗いようで、参謀の仕事ができるか。なにをぐずぐずしておるのだ。すぐに前線におもむいて敵状を視察し、戦況を報告せよ」
かれ(児玉源太郎)は、苛立ったように命じた。
『海の史劇』

2015年3月20日金曜日

作戦の中身そのものの是非論でいえば反対だが、

組織の論理では「出来ない」ということは許されない、というわけである。
この考え方は、きわめて日本的である。現代の日本でも、政党や官僚、企業といった組織の中に蔓延している不変の価値観である。

しかし、このために取り返しのつかないさまざまな犠牲が出た。インパール作戦の失敗も、その一つである。インパール作戦をめぐる「組織の空気」は、まったくこの「日本的組織第一主義の価値観」に染まっていた。そして、その空気の中での作戦の決定と遂行は、「無責任」というキーワードで語られるべき多くの行為を生んでいった。現代のサラリーマンの多くが、大なり小なり日常で感じているさまざまな葛藤は、このインパール作戦の顛末の類型といえる。
『責任なき戦場』

「白骨街道」の悲劇を引き起こした、

その日本陸軍の「組織の体質」が、半世紀近くたった今も、日本のさまざまな組織の中に確実に棲んでいることに慄然とするからである。
『責任なき戦場』

2015年3月15日日曜日

(たれも責任を感じてはいない!)

と、児玉はおもった。責任を感じているならこの場でもすぐ処置があるべきであった。ところがみな見学者のように無責任な顔をしている。
『坂の上の雲』

(この連中が人を殺してきたのだ)

とおもうと、次の行動が、常軌を逸した。かれは地図のむこうにいる少佐参謀におどりかかるなり、その金色燦然たる参謀懸章をつかむや、力まかせにひきちぎった。
『坂の上の雲』

2015年2月26日木曜日

八月十五日の払暁、幕僚室に入った

宮崎先任参謀は当直の田中航空参謀の報告に顔色を変えた。先刻、宇垣長官に呼ばれ、彗星艦爆五機に至急沖縄攻撃準備を整えるよう命令されたという。

「指揮官として私が乗っていくのだ。ただちに作戦命令を起案したまえ」
再考を求め、翻意を促す宮崎の懸命の懇願に宇垣は耳をかそうとしなかった。
「先任参謀、もうよい。とにかく命令を起案したまえ」
「私には、そんな起案は書けません」
「どうしても書いてもらう」
『宇垣特攻軍団の最期』

特攻隊として公式に認められなかった中津留隊の隊員は、

死後二階級特進が許されず一般戦死者並みに一階級しか上らなかった。宇垣中将に至っては一階級も上らなかった。連合軍への配慮があったといわれる。

宇垣の突入死から六時間後、特攻隊の創設者といわれる大西瀧治郎中将もまた、海軍軍令部次長の官舎で自刃して果てた。

大西や陸軍大将阿南惟幾の自刃(八月十五日未明)と較べて、十七名もの兵達を死の道連れにした宇垣の自裁行為は、後世に批判を残すことになった。
同『私兵特攻』

「戦後ずうっと永い間、わたしゃ宇垣さんを

怨み続けてきました。どうして自分一人でピストルで自決せんじゃったんじゃろうか、戦争は済んだというのに、なにも若い者たちをよおけ連れて行くこたあなかったのにと怨んできました。——しかしもうこれで諦めます」
『私兵特攻』

中津留達雄大尉の父明氏の言葉です。

2015年2月11日水曜日

真崎(甚三郎)は天皇の激怒を知り、

統帥部の強硬意思を知るにおよんで、決行青年将校らとの常からの関係による疑惑をひたすら避けるべく努めた。大火事はボヤにとどめなければならない。真崎の「撤退勧告」は自分の身に火がつかないための消火作業だった。

こうなったら、ただ決行部隊を帰隊させることしかなく、それだけ責任追及が軽くなる。こと茲(ここ)に至っては真崎もひたすら保身につとめるばかりだった。
『昭和史発掘』

満州事変時の関東軍と中央幕僚との連携は、

石原(莞爾)・板垣(征四郎)と永田(鉄山)・岡村(寧次)らの一夕会ラインが基本……

満州事変は、関東軍と陸軍中央の一夕会系中堅幕僚グループの連携によるものだったといえよう。
『昭和陸軍全史』