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2015年2月26日木曜日

八月十五日の払暁、幕僚室に入った

宮崎先任参謀は当直の田中航空参謀の報告に顔色を変えた。先刻、宇垣長官に呼ばれ、彗星艦爆五機に至急沖縄攻撃準備を整えるよう命令されたという。

「指揮官として私が乗っていくのだ。ただちに作戦命令を起案したまえ」
再考を求め、翻意を促す宮崎の懸命の懇願に宇垣は耳をかそうとしなかった。
「先任参謀、もうよい。とにかく命令を起案したまえ」
「私には、そんな起案は書けません」
「どうしても書いてもらう」
『宇垣特攻軍団の最期』

特攻隊として公式に認められなかった中津留隊の隊員は、

死後二階級特進が許されず一般戦死者並みに一階級しか上らなかった。宇垣中将に至っては一階級も上らなかった。連合軍への配慮があったといわれる。

宇垣の突入死から六時間後、特攻隊の創設者といわれる大西瀧治郎中将もまた、海軍軍令部次長の官舎で自刃して果てた。

大西や陸軍大将阿南惟幾の自刃(八月十五日未明)と較べて、十七名もの兵達を死の道連れにした宇垣の自裁行為は、後世に批判を残すことになった。
同『私兵特攻』

「戦後ずうっと永い間、わたしゃ宇垣さんを

怨み続けてきました。どうして自分一人でピストルで自決せんじゃったんじゃろうか、戦争は済んだというのに、なにも若い者たちをよおけ連れて行くこたあなかったのにと怨んできました。——しかしもうこれで諦めます」
『私兵特攻』

中津留達雄大尉の父明氏の言葉です。

2015年2月11日水曜日

真崎(甚三郎)は天皇の激怒を知り、

統帥部の強硬意思を知るにおよんで、決行青年将校らとの常からの関係による疑惑をひたすら避けるべく努めた。大火事はボヤにとどめなければならない。真崎の「撤退勧告」は自分の身に火がつかないための消火作業だった。

こうなったら、ただ決行部隊を帰隊させることしかなく、それだけ責任追及が軽くなる。こと茲(ここ)に至っては真崎もひたすら保身につとめるばかりだった。
『昭和史発掘』

満州事変時の関東軍と中央幕僚との連携は、

石原(莞爾)・板垣(征四郎)と永田(鉄山)・岡村(寧次)らの一夕会ラインが基本……

満州事変は、関東軍と陸軍中央の一夕会系中堅幕僚グループの連携によるものだったといえよう。
『昭和陸軍全史』