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2015年5月31日日曜日

南のインパールと北のコヒマを、

日本の地勢にたとえれば、インパールを名古屋とすれば、コヒマは飛騨高山にあたる。それくらいの距離がある。その中間に、ミッションの集落と、インパール河に架かる橋が二つある。
『遥かなインパール』


2015年5月30日土曜日

常識を超えたところで軍の力学が働きはじめ、

不可能なことを可能であるかのように錯覚するのである。この戦いの悲劇性は、今度の戦争のなかでも、その極限の例を示すが、それは上層部を形成した将軍たちの功名心と保身と政治的必要に根拠をおいていたのである。統帥の錯誤と怠慢と夢想とを、第一線の将兵は義務以上の勇気と奮戦によってあがなわねばならなかった。
『完本・列伝 太平洋戦争』


将兵は、弾薬や資材と同じように、

消耗品と考えられ、動員された兵隊は、次々と無謀な戦闘につぎこまれた。弾丸の飛ばないところで、煙草をくゆらしながら、戦争を数字でしか考えない者たちの、あずかり知らぬことであった。
『完本・列伝 太平洋戦争』

清水良雄画伯 (1891-1954) 『ルンガ沖夜戦』

事前に日本艦隊の出撃を知った南西太平洋方面海軍司令官“猛牛”ハルゼイ提督は、

一挙にこれを叩きつけてやろうと、新鋭の巡洋艦隊を派遣した。それだけに結果を知らされた時、彼はあいた口がふさがらない思いを味わったし、海戦に参加したアメリカ海軍の駆逐艦乗りは、口を揃えてこう賛嘆したという。
「癪にさわるほど立派な連中だった」
そして、世界的に有名な軍事評論家ハリソン・ボールドウィンも、戦後になって、その著書のなかで激賞した。
「太平洋の戦争をとおして日本に二人の名将がいる。陸の牛島、海の田中」
牛島とは沖縄第三二軍司令官・牛島満中将であり、この癪にさわるほど立派な海の名将とは第二水雷戦隊司令官・田中頼三少将のことであった。
『完本・列伝 太平洋戦争』



吉川(潔)艦長の勇断により、

必殺の雷撃ののち敵にうしろをみせず、夜戦の混乱に乗じて、敵中にただ一隻躍りこみ、まさに死中に活を求めて、手当り次第に敵を撃つ。右も左もすべて敵!まさか日本駆逐艦が一隻まぎれこんでいるとはつゆ知らぬ米艦隊は、いずれもはるかに遠い日本艦隊に砲門を指向して、夕立に気づくものもない。いつの間にか僚艦「春雨」の姿は消え、「夕立」だけが敵中にある。
『完本・太平洋戦争(上)』


「貴様はどこの艦の所属かッ」

何度目のことであったろう、血まみれの搭乗員は細く眼を開き、ただ一言、
「ず、い、か、く」
とだけ言い、がくっと首を垂れた。若い勇士の戦いはこの時に終わった。航海長は帽子をとると、それを両の拳に丸め、ゆえ知らぬ怒りに「馬鹿野郎ッ」と思わず大声を、泡立つ海に叩きつけた。
『完本・列伝 太平洋戦争』

駆逐艦に乗員を退艦させる「ホーネット」

未帰還機の報告を受ける時、

艦長はその場に立っておられぬほどに深く激しい悲しみのうちに、帰らざる勇士を一人一人思いだすのである。悲惨は高橋定少佐指揮の艦爆隊二十一機である。帰艦わずかに五機。艦長は思わず天を仰いで瞑目した。
『完本・列伝 太平洋戦争』

空母ホーネットに急降下爆撃中の九九艦爆

(昭和)十九年二月十七日、

防衛線の一角たるトラック島は大空襲を受け、“日本の真珠湾”は瞬時にして壊滅した。
この危急存亡に、東条英機首相がとった対策は、あろうことか、政戦略の一本化という名目で、参謀総長を兼務するという未曾有の人事だった。“東条の副官”と渾名される嶋田繁太郎海相もまた、これにならって軍令部総長の椅子を、永野修身大将から奪って兼任する無謀をあえてした。海軍部内の心ある人たちが密かに倒閣に動きはじめたのは、当然であろう。
『完本・列伝 太平洋戦争』


海上では駆逐艦マクドノー号が、

艦首の十メートル横に潜望鏡を見つけて飛び上がっていた。海底では、今、潜望鏡の十字にサラトガが合致しようとした。瞬間、マクドノー号の艦首が潜望鏡におしかぶさってきた。
方位角右一二〇度、もう待てぬ。距離三千五百。
「てッ」
五管の発射管から、次々と“蒼き殺人者”――魚雷が躍りでていった。
『完本・列伝 太平洋戦争』

2015年5月6日水曜日

十二月一日、御前会議は決定した。

十一月五日決定の「帝国国策遂行要領」に基く対米交渉は成立するに至らず
帝国は米英蘭に対し開戦す

翌二日午後五時三〇分、山本五十六連合艦隊司令長官も、すでに北緯四十度、西経一七五度付近をハワイに向かって進む機動部隊に、打電した。
「ニイタカヤマノボレ一二〇八」
「十二月八日午前零時(東京時間)を期して開戦」の命令である。