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2015年9月26日土曜日

作戦の末路

牟田口の訓示
「三一師団の佐藤の野郎は、食うものがない、撃つ弾がない、これでは戦争ができないというような電報をよこす。日本軍というのは神兵だ。神兵というのは、食わず、飲まず、弾がなくても戦うもんだ。それが皇軍だ。それを泣き事言ってくるとは何事だ。弾がなくなったら手で殴れ、手がなくなったら足で蹴れ、足がなくなったら歯でかみついていけ!……
長広舌を聞くうちに、将校たちはフラフラになり、バタバタとその場に倒れたという。
『責任なき戦場』

「諸士のあとにつづく、と司令官の方は

言いました。われわれもつづく、という言い方をされたと聞いていますが、なんと残酷なことを言うのでしょうか。本当にこの方たちはつづきましたか、兄たちへの約束を果たしたでしょうか。そういういいかげんな言葉を弄ぶような人たちに対して、兄たちはどういう感情をもっているでしょうか」(上原良司氏の妹 上原清子氏)
『戦場体験者 沈黙の記録』

諸士の攻撃は必死の攻撃である。

しかし、諸士が戦場で死んでも、その精神は、かの楠公が湊川におけるがごとく、必ず生きる。特攻隊は、あとからあとからとつづく。また、われわれもつづく。特攻隊の名誉は、諸士の独占するものではない。各部隊がみんなやるのだ。諸士だけにやらせて、われわれがだまって見ているというのではない。ただ、諸士に先陣として、さきがけになってもらうのである」(第6航空軍司令官 菅原道大中将)

司令官のその内容はあまりにも得手勝手、国家のエゴイズムをそのまま代弁しているにすぎない。
……
司令官に代表される軍事指導者たちの無責任と無答責の姿勢を歴史の中に正確に刻みこんでおかなければならない。
『戦場体験者 沈黙の記録』

2015年9月20日日曜日

「体面」や「保身」、

組織内融和の重視や政治的考慮は、必要以上に作戦中止の決断を遅延させ、雨季の到来や補給の不備とあいまって、現地部隊に過酷な戦闘を強いたのであった。
『失敗の本質』

2015年9月13日日曜日

救助の方法すでになし

「つぎつぎ斃れだした」
との悲報がくる。ああ持ち場を死守して、ついに最悪の状態にたちいたったか。
「なんとかして機械室から上がれないか」
いまとなっては、それもかなわぬだろう。
「何かいい残すことはないか」
と思わず断腸の思いで連絡させた。
「なにもない」
とすぐ返事がもたらされた。
従容(しょうよう)として、持ち場を死守するものの声である。(元第二航空戦隊参謀・海軍中佐  久馬武夫)
『証言 ミッドウェー海戦』


2015年9月8日火曜日

五・一五事件

軍部大臣がその部内から首相暗殺犯人を出しておきながら、そのまま次の斉藤内閣に留任した如きは、理由は何とでもつくにしろ、少なくも他人の心の底に割りきれぬ何物かを残したことは争えない。
軍が真に国民と共に在るためには、軍上層部はさらに一層謙虚であってほしかった。
『昭和戦争史の証言 日本陸軍終焉の真実』

上級者の不勉強

東条(英機)大臣などはこの点からすれば確かに異色だった。高級課員級に至っては仕事の実際を知らずに観念論をやるのが多いのも困ったものである。こういう人達が一般論できめるものだから、班長以下のする仕事は高級課員以上の仕事と遊離してしまうことが多かった。
『昭和戦争史の証言 日本陸軍終焉の真実』

人事

補任課は以前は各方面の人が入れ替っていたが、近ごろは一種の人事屋なるものができ上り、しかも狭い視野で独善的に人事をきめる癖があった。所轄人事の一元化で無理をした結果、歩兵の将校で精々士官学校の区隊長くらいの経験しかないものが各方面の人事の専権を振うようになった。軍の能率をこれがために阻害したことは幾何(いくばく)なるかを知らない。
『昭和戦争史の証言 日本陸軍終焉の真実』

2015年9月6日日曜日

大本営作戦課長で、東條英機陸相の秘書官をつとめた服部卓四郎は、

戦後はGHQ歴史課の職員にもなり、当時飢えの中にいた日本国民とはまったく逆にアメリカの物資を与えられて考えられないほどの贅沢な生活をした。加えてGHQの威光のもと、日本陸海軍の軍人を次々にGHQに呼びつけて戦史の記述を進めた。むろんこれはアメリカの意に沿うと同時に、自分たちの軍事戦略を正当化するための資料づくりでもあった。
『戦場体験者 沈黙の記録』

参謀たちの戦史は、自分たちは

この戦争でこういう状況認識をもって、このような命令を下したという内容がほとんどであり、現場での戦闘準備がわるかったとか戦争に対する認識が甘かったなどとの理由をつけて、自らを免罪する内容が多かった。
つまり自己弁明型なのである。
『戦場体験者 沈黙の記録』

やがて広島と長崎に原爆が落とされ、

ソ連軍が奉天に達したときは、日本の無条件降伏で戦争は終っていた。真っ先に入ってきたソ連軍の兵士は、手の甲に入れ墨のある囚人部隊で、略奪暴行のかぎりをつくした。若い女性は頭を丸刈りにして床下に隠れ、ピストルを突きつけられた私は、膝ががくがく震え、大和魂どころではなかった。(ジェームス三木氏)