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2016年8月21日日曜日

「ひとつ体当たりのつもりでやってくれ、

おれもあとからゆく」
と部下をはげましたとき、かれはすでに自分の死を覚悟していたのだろう。
『ミッドウェー戦記』


「飛龍一隻でなんとか敵空母を全滅させねばならない

という責任感が、つよく肩にのしかかってきた。発艦時の心境は、なんとしてでも敵空母をやらねばならない、やる責任がある、というだけで生死のことなどなにも頭に浮かばなかった。母艦を飛び立ってからも、恐怖は感じなかった」(元飛龍第二次攻撃隊第二中隊長、橋本敏男大尉)
『ミッドウェー戦記』

(第十戦隊旗艦「長良」の)甲板によじのぼった南雲中将は、

(第十戦隊司令官の)木村少将の顔をみるなり、
「木村。この長良で赤城をひっぱれんかね」
と言った。
『ミッドウェー戦記』

「二隻の駆逐艦は、じつによくやってくれました。

燃えあがる巨艦(「加賀」)にすれすれに近寄ってきてくれてですねえ、あれは危険だったでしょう。艦長の名前は失念したが。(筆者注、前述のように、「萩風」は岩上次一氏、「舞風」は中杉清治氏)(同、天谷孝久氏)
『ミッドウェー戦記』

当時の飛行機搭乗員というのは

ミヤモトムサシ(筆者注、宮本武蔵、技神に入っていたというほどの意味であろう)だったですからねえ。こっちが黙っとったら、自分から退艦するようなことはしませんから、当時の軍人は。私は、勝手に飛び込めと怒鳴ってあるいた。当時の飛行機搭乗員というのは、むかしのお百姓さんが米をつくるように、長い歳月をかけて身体でじっくりと覚えた技術というもんがありましたからねえ。(元「加賀」飛行長、天谷孝久中佐)
『ミッドウェー戦記』

2016年8月20日土曜日

それにしても、このあたりの、いわゆる零戦の性能と

乗員のはたらきぶりは、ただみごとというしかなかった。(「撃墜した米機二十機ぐらいまではかぞえていたが、あとはめんどうくさくなってやめた」――当時「蒼龍」戦闘機搭乗員藤田怡与蔵氏談)
『ミッドウェー戦記』

「敵数十機、右三十度、低空、

こちらに向かってくる」
第二波の来襲である。
これは「エンタープライズ」から出撃してきた雷撃機隊であった。
『ミッドウェー戦記』

第一波の敵艦載機が姿をあらわしたのは、

(第一次)攻撃隊の最後の一機を収容するのとほとんど同時刻であった(攻撃隊の収容に要した時間はほぼ四十分)。午前九時十八分のことである。
最初に発見したのは重巡「筑摩」だった。右前方の水平線上から、十八機の編隊が姿をあらわした。雷撃機であった(ホーネット 第八雷撃中隊)。
『ミッドウェー戦記』

「敵兵力は巡洋艦、駆逐艦各五隻」(利根四号機)

という意味のものであった。
そして、さらに十分後、
「敵は空母らしきもの一隻を伴う」という重大な電文を打ってきた。
『ミッドウェー戦記』

「敵ラシキモノ一〇隻見ユ、

”ミッドウェー”ヨリノ方位一〇度、距離二四〇浬、針路一五〇度、速力二〇節以上」(利根四号機)
『ミッドウェー戦記』

「私はあのとき、ミッドウェー基地の航空部隊が

日本軍機動部隊と死闘を演じているさまに思いをめぐらせていた。そして、私の頭のなかで、味方の飛行機は完膚なきまでにたたきのめされていた。そう、私はあのとき、味方の被害を冷酷に計算していたのである。私は人非人になっていた」(第十六機動部隊参謀長、マインズ・ブローニング大佐)
かれは、ミッドウェー基地の友軍機が、その数とパイロットの技術の面からみて、敵空母部隊と四つに組んではとうてい勝ち目がないことをしっていた。かれはそれを十分計算にいれたうえで、敵が味方機を撃破した直後の心の隙を衝こうとくわだてたのである。
『ミッドウェー戦記』

2016年8月18日木曜日

いまとなっては、たしかめるすべもないが、

『戦藻録』によれば、あるとき宇垣纏聯合艦隊参謀長が、人気のないのをさいわいに、山口多聞一航戦司令官にたいし、
「赤城の一航艦司令部では、いったいだれが実権をにぎっているのか」
と質問すると、山口少将はややあってから、
「南雲長官はなにもいわぬ。参謀長も似たようなものだ」
と答えたという。
『ミッドウェー戦記』

2016年8月16日火曜日

索敵機の目標誤認(五月七日)

「敵航空部隊は空母一、巡洋艦一を基幹とし駆逐艦三隻をともなう。針路三〇度、速力一六ノット」
『太平洋海戦』

2016年8月14日日曜日

「巨大な軍艦が沈むようすというのは、

ちょっと実際に見た者でなければわからんでしょうな。凄絶といおうか凄惨というべきか、ちょっと形容の仕様がない。『加賀』はね、平衡を保ちながら、徐々に沈んでいった。『赤城』は、艦尾から巨きな神の手かなにかに、一気にひきずり込まれるようにして沈んでいった」(元駆逐艦「舞風」艦長 中杉清治氏談話)
『証言・ミッドウェー海戦』

赤城


加賀

「つぎつぎ斃れだした」

との悲報がくる。ああ持ち場を死守して、ついに最悪の状態にたちいたったか。
「なんとかして機械室から上がれないか」
いまとなっては、それもかなわぬだろう。
「何かいい残すことはないか」
と思わず断腸の思いで連絡させた。
「なにもない」
とすぐ返事がもたらされた。
従容として、持ち場を死守するものの声である。(元第二航空戦隊参謀・海軍中佐 久馬武夫氏)
『証言・ミッドウェー海戦』

2016年8月13日土曜日

血みどろ空母「飛龍」の怒号を聞け

機関参謀は艦橋の伝声管について、ずっと連絡していたが、しだいに室の温度が高くなったのと、また室は閉鎖してあったので、「機関室からの脱出は困難」という連絡をつげてきたが、その一言を最後に声もと絶え、機関室の全員は戦死した。
そして主機械もとまり、消防ポンプも放水できなくなり、電灯も消えてしまった。まことに悲壮というほかはなかった。(元空母「飛龍」航海長・海軍少佐 長益氏)
『証言・ミッドウェー海戦』


とくに同(ミッドウェー)海戦で、正しかった意見具申が用いられず、

また駆逐艦による生還の道がありながら、艦長とともに、あえて艦と運命をともにされた山口司令官がしのばれてならない。
敵を攻撃すべき雷爆装機が、かえって自艦に致命的打撃をあたえる結果となり、搭乗員の高練度の技量もほとんど発揮されないまま敗退したことを、どんなに悔やまれたことであろうか……。(同、福岡政治氏)
『証言・ミッドウェー海戦』



ややあって、駆逐艦の航跡が急に白く

波立ちはじめた。「飛龍」にむけて増速し、そして急に変針した。
「さては自沈のための魚雷発射では?」
私はまばたきもせず、じっと見守っていると、「飛龍」の舷側に巨大な水柱があがった。
その水柱は、テレビなどで見るスローモーション画面のように、おもむろに高く高く上昇して、いったん停止し、そして静かに消えていった。
昨夜来の乗員の苦闘にもかかわらず、「飛龍」はついに刀折れ矢つき、自沈のやむなきにいたったものと思われる。生存者を駆逐艦に移し終わってからの魚雷発射だったのである。(元重巡「筑摩」掌飛行長・海軍大尉 福岡政治氏)
『証言・ミッドウェー海戦』


2016年8月11日木曜日

(昭和十七年)当時、「飛龍」の搭乗員は

一部が移動されたが、分隊長以下の大部分は、真珠湾奇襲において赫々たる戦果をおさめ、ついでウェーキ島、豪州、比島、蘭印、インド洋作戦においても輝かしい武勲をたてた、日本海軍の最優秀の猛者ばかりであった。(元空母「飛龍」飛行長・海軍少佐 川口益氏)
『証言・ミッドウェー海戦』

2016年8月8日月曜日

被弾したまま隊長機は発艦

(第三次攻撃隊)一〇機のなかには、第一次攻撃で右燃料タンクをやられた(友永)隊長機もふくまれていたので、私は隊長に飛行機をかえて出発されるように意見を具申したが、隊長は、
「敵は近い。左タンクだけでも十分だ。それにこのさい一機といえども機数を減らすのはもったいない」
と、私の意見をしりぞけて勇躍発艦した。(同、橋本敏男氏)
『証言・ミッドウェー海戦』

「オレも日支事変いらい何回も死中に活を

もとめ得たが、こんどばかりは年貢のおさめどきかと観念した。俺は死にそこないだからよいとしても、若い前途ある貴様は殺したくないと思ったよ」
といわれたときには感激して、この隊長の下で死んでも悔いはないと覚悟をあらたにしたのである。(同、橋本敏男氏)
『証言・ミッドウェー海戦』

友永(丈市)隊長は、

「飛行士!やられたタンクは、右か左か?」
とどなった。
被弾部は翼のつけ根付近で、左右どちらか判定にしばらく時間がかかったが、どうやら右タンクとわかった。
すると隊長は、燃料コックを切り換えて被弾した右タンクがカラになるまで右タンクの燃料を使い、右タンクがカラになってはじめて左タンクに切り換えた。
このわずかの間にも、彼我の激烈な空戦がつづいたが、零戦の奮戦によって敵グラマンはつぎつぎと撃墜され、約十五分後には空中に敵機を一機も認めなくなった。
彼我空戦の死闘の間にあって、適切な回避運動や燃料コックの切り換えを実施した隊長に対し私は、先輩にはとてもおよぶところではない、と感心するとともに教えられもしたのである。(元空母「飛龍」艦攻隊第二小隊長・海軍大尉 橋本敏男氏)
『証言・ミッドウェー海戦』