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2016年10月30日日曜日

中垣(政介飛曹長)が出発に際して行なった小隊長訓示は、「われわれは昨日(ラバウルに)

着いたばかりでまったく地理不案内の上、初めての洋上で迎えの飛行艇と会合することは極めて困難が予想される。幸い合流できても脚の出たままの九九艦爆は着水の時に転覆の恐れが多い。なまじ不時着して行方不明となるよりは敵艦に体当たりを決行しよう。列機もいっさい帰ることは考えるな、俺の後に続け」
と叱咤し、(ツラギ沖敵船団への片道攻撃の)進撃針路だけ分かればよい、と航法計算盤を投げ出して飛び立って行ったという。
『修羅の翼』

「直掩隊は爆装隊の盾となって、

全弾身に受けて爆装隊を進めよ」
『修羅の翼』

2016年10月22日土曜日

マリアナ沖の米機動部隊を攻撃すべく突入、

火だるまとなって撃墜される基地航空隊の銀河。
『激闘の空母機動部隊』


私たちは涙をのんで最後の天山を海に捨てた。

南海のうねりは、すぐに天山の機体をのみこんでしまった。搭乗員は無言でそれをながめていた。しかし、彼らの頬には一すじの涙がひかっていたのである。
『激闘の空母機動部隊』


2016年10月9日日曜日

一式陸上攻撃機

設計主務の本庄季郎技師は、諸要求を満足させ、兵器としての耐弾性を付与するには、四発機にするほかにないと考えたが、航空廠(十四年に航空技術廠に改編)側から「用兵に口を出すな」と一蹴されてしまった。軍が提示する要求性能を会社が実現してみせるのは当然、との増長が、この時期の発注側に特に顕著だったのは否めない。そのムードを生んだ主役が、同じ三菱の九六艦戦と九六陸攻だったのは皮肉である。
『太平洋戦争 日本の海軍機』


日露戦争によって獲得した満蒙権益は、

その後欧米諸国の圧迫干渉をうけ、ことに一九二〇年の新四国借款団(原内閣期)以来、権益の削弱を余儀なくされた。さらに、ワシントン会議、ロンドン軍縮会議などの圧迫によって、国防力は相対的に低下した。そのことが、「支那をしていよいよ増長せしめ、その革命外交の進展にともない、排日侮日の行為を逞うせしむる」要因をなし、「支那に乗ぜしむるの隙」を与えることとなった。したがって満州国承認後も、「これに対する支那の反抗は今後直接間接いよいよ熾烈となるであろう」。永田(鉄山)はそう考えていた。
『昭和陸軍全史』