ページ

2017年4月28日金曜日

陸海軍の全神経が、ソロモン諸島とガダルカナル島に

奪われている間に、その虚を衝いてわが国防圏の西玄関たるビルマを侵されるようなことになったら、戦局は大変なことになる道理だが、事実はまさにその通りに動きつつあったのだ。
『帝国陸軍の最後』

新軍司令官の牟田口廉也中将を補佐する

参謀長には、小畑信良少将(のちグアム島守備隊司令官戦死)が就任した。しかし、小畑少将は牟田口と意見があわず、わずか一ヵ月で更迭され、久野村桃代少将が後任となった。
稀にみる切れ者といわれた小畑が、参謀長職を免ぜられたのは、牟田口のインド侵攻論に真っ向から反対し、牟田口の心証を害したからだといわれており、創設早々の第十五軍内部に、暗い影を投じていった。
『菊と龍』

2017年4月25日火曜日

ちなみに、現在の韓国大統領の父親である朴正煕(パクチョンヒ)元大統領は

生前、日韓併合時代をこう語っています。
「しかしあのとき、我々は自分たちで選択した。日本が侵略したんじゃない。私たちの先祖が選択したのだ。もし清国を選んでいたら、清国はすぐに滅びて、もっと大きな混乱が朝鮮半島に起こったであろう。もしロシアを選んでいたら、ロシアはそのあと倒れて(ソ連になり)半島全体が共産主義国家になっていた。北も南もすべて共産化された半島になっていたということだ」
『誇りある日本の歴史を取り戻せ』

2017年4月24日月曜日

「三国干渉」でずる賢く動いたロシア

そもそも三国干渉は清国からの依頼でもあったのですが、それをうまく利用して利を得るこういうずる賢さは、武士道でやってきた日本にはないものです。特にロシアの場合は、その後のソ連にも引き継がれていく伝統芸のようなものですから、北方領土を取り戻すには、彼らを上回るような悪知恵も必要なのです。
『誇りある日本の歴史を取り戻せ』

2017年4月23日日曜日

日本の本土空襲の指揮をとっていたのはカーチス・ルメイ

という将軍でしたが、彼は戦後、明らかに非戦闘員を狙った爆撃だったとする批判に対して何ひとつ反省の意を示しませんでした。ところが、日本政府はそんなルメイ将軍に対して、「戦後、日本の航空自衛隊の育成に協力した」という理由から勲一等旭日大綬章を贈っています(昭和三十九年)。時の総理大臣は、のちにノーベル平和賞を受賞することになる佐藤栄作です。
『中国・韓国人に教えてあげたい本当の近現代史』

2017年4月22日土曜日

日本が独立すること(昭和二十七(一九五ニ)年のサンフランシスコ講和条約を指 す)

に反対した連中は「国賊」であることをはっきり認識しておく必要があります。この点は忘れてはいけません。何度でも指摘しておく必要があります。
とにかく、日本の独立に反対した連中がのうのうと生きているのは怪しからん話です。だから左派が何か生意気なことをいったら、「なんだ、日本の独立に反対したくせに何をいうか」と、われわれはそういう匕首(あいくち)をつねに懐に忍ばせておかなければなりません。
『中国・韓国人に教えてあげたい本当の近現代史』

アメリカは台湾を見捨てない

ーー台湾よ、大陸が武器をもって侵攻してきたら守ってあげるから、いまは静かにしていてくれ、ということでしょう。台湾が早く独立したいと焦る気持はわかる。しかし台湾が「いままでどおりの台湾である」といっていれば中国も事を荒立てまい。そうすればそのうち大陸が崩れるだろう、というのがアメリカの計算のようです。
『中国・韓国人に教えてあげたい本当の近現代史』

2017年4月21日金曜日

中国はこのところ毎年、対前年比二桁のスピードで

軍備拡張を続けています。旧ソ連(ロシア)からどんどん武器を買い、技術も買っています。潜水艦も買い、さらには戦闘機も買っている。日本からODA(政府開発援助)をもらいながら、年間のGNP(国民総生産)の二割以上も軍備拡張に使っています。そんな非常識なことを続けているのが中国という国です。
『中国・韓国人に教えてあげたい本当の近現代史』

周知のように中国は食糧や海底油田を求めて

海のほうにも進出してきています。
たとえば、日本の固有の領土である沖の鳥島を「岩だ」と言い張って自国の海域を広げようとしています。あのあたりで魚を獲りたいという狙いからです。
『中国・韓国人に教えてあげたい本当の近現代史』

奉天では日本人がうっかり城内にいくと、

巡警、野次馬でふくろだたきに会う。小学児童の通学には、領事館警察隊が護衛していったが、それでも投石された。(『消えた帝国  満州』毎日新聞社)
『中国・韓国人に教えてあげたい本当の近現代史』

2017年4月20日木曜日

実りなき総括

(昭和十四年五月二十八、二十九日の)二日間の戦闘で、敵に与えた損害は
  人  約百名死傷
  軽装甲車  五両炎上
  軽戦車  約十両破壊炎上
我が受けた損害は
  東中佐以下  約二百名戦死
  軽装甲車  約十両損失
一勝一敗であった。

右が、第一次ノモンハン事件に対する辻政信の”総括”である。

これでは誰しも「一勝一敗」とは認めず、辻の負け惜しみがクローズアップされるだけなのに……

が、神話の世界に、どっぷりつかっていた日本の軍部人たちには、怜悧な反省はなく「負けたのは山県部隊がダラシナイからだ。今度は、もう少しマシな部隊に、やらせよう」という誇り高い発想から、関東軍直接指導の第二次ノモンハン事件へと発展する。
『ノモンハン事件』

「辻のやっていることは、表向き軍規の粛清、

士気の昂揚を目的としていたといえなくもない。しかし実際において現れてくる結果は、辻に弱点を握られた上級者が、彼に遠慮し、彼の横暴を黙認するふしぎな事態であった。昭和期の陸軍の頽廃を最も端的に物語るものは、下剋上という現象だったといわれるが、辻などはその甚だしい一例であった」(杉森久英氏)
『八月の砲声  ノモンハンと辻政信』

「ともかく辻(政信)は、大物から一本取る名人

であった。彼は新しい部署へ配属されると、まず経理部へ出かけて、参謀長以下幕僚たちの自動車の使用伝票と、料亭の支払伝票を調べあげるのであった。これによって、彼らの私行上の秘密は押えられ、辻に頭があがらなくなった。自分のやり口が、非常に卑劣なものだという自覚は辻にはなかった」(杉森久英氏)
『八月の砲声  ノモンハンと辻政信』

2017年4月19日水曜日

部下は隊長が身をなげうって戦えば、

最後の一兵まで健闘する。隊長がいなくなればたちまち烏合の衆となるという事実を、(東)捜索隊全滅の資料を読むうちに、いまさらのように覚った。勇将のもとに弱卒なしという諺は真実であった。
『八月の砲声  ノモンハンと辻政信』

東捜索隊の全滅については(昭和十四年)六月三日の

東京朝日に、「白刃の突撃戦、壮絶東部隊長の戦死」という見出しで、池田軍医中尉が東隊長の遺骸を守ったという美談が報じられただけであった。全滅の事実は伏せられたのである。
『八月の砲声  ノモンハンと辻政信』

2017年4月17日月曜日

二〇〇六年の二月、事件から七十年目にして初めて、

二・二六事件で殺害された重臣たちの生々しい写真が世に出た。
(中略)
実に凄惨な現場であった。六十代、七十代の天皇の側近たちはめった斬りにされ、そして銃でも撃たれている。これらの写真を見ているうちに、内務省は同じものを昭和天皇に見せたのだろうかという疑問が湧いてきた。
(中略)
(事件当時)もし現場写真を天皇が見ていたとすれば、決して青年将校を許すことはないだろう。七十年の時が経っても、見る者に恐ろしさを感じさせる写真なのである。
「朕自ラ近衛師団ヲ率ヰ、此ガ鎮定ニ当タラン」
天皇は尋常ならざる怒りを抱き、「凶暴」「殺戮」という言葉で青年将校を非難している。その言葉から、あの現場写真を見た可能性を感じることはできないだろうか。
『検証・昭和史の焦点』

(東捜索隊の)金武(盛重)副官の記述した

戦闘詳報には、第三大隊長譜久村(ふくむら)安英少佐の要領を得ない、見方によればきわめて狡猾冷酷ともうけとれる応対に、抑えきれない憤懣がこめられている。

譜久村少佐は、到着地点を七三三高地と見誤っていたので、そのうえの進出を要請されても応じる必要はないと考えたとしても、軍規違反をしたわけではない。
しかし東捜索隊が敵の重囲のなかで苦闘しているとき、第三大隊が救援におもむくのは、友軍に対する義務であった。

(昭和十四年五月二十八日の午後以降、二十九日十八時頃の最後の突撃までの間)東捜索隊が全滅の危機に直面していることは、状況を判断すれば一目瞭然である。譜久村少佐が友軍を見殺しにした事実は、戦闘詳報においてどのように辻褄を合わせようとも、打ち消すことはできないことになるのではないか。
小松原師団長の日記には、譜久村少佐への批判が記されている。
一、大隊長は攻撃計画、ことに支隊の目的を理解せず、川又に進出すべき積極的精神は最初より消耗せられあり。
……
『八月の砲声  ノモンハンと辻政信』

2017年4月13日木曜日

ただ、私は、素人の戦記ならともかく、

辻(政信)のような俊秀の誉れ高かった軍事専門家が、激戦を表現するためとしか思えない誇張を用いることにこだわるのである。この戦闘での惨烈な激戦の意味は、辻参謀を含む作戦指導者たちが敵の戦力を下算して作戦を立て、妥当でない用兵をしたにもかかわらず、実戦に投入された将兵が力戦死闘を重ねたことにあるのであって、敵の戦車の数を誇大に伝えることにあるのではない。
『ノモンハン』

2017年4月12日水曜日

この作戦は多くの点でハンニバルの

カンネーの戦いに似ている。これは史上二度目の完璧な包囲戦となるだろう。
 ーーG・M・シュテルン上級大将
『ノモンハン 草原の日ソ戦ーー1939』

小松原将軍の見るところ、

多数の有能な将校を失った結果、各部隊の攻撃力は七月前半に比べてかなり落ちており、“突進力”は弱まっているように思われた。
『ノモンハン 草原の日ソ戦ーー1939』

2017年4月10日月曜日

おまけに、この時期(第二次ノモンハン事件のハルハ河両岸攻撃)から、

再三再四「ソ連退却」という関東軍情報を流して、諸隊の出撃を"せき立てた"ヤツがいるのだ("タカ派関東軍参謀"だとか、ズバリ辻だとかの憶測がある)が、事件後は"なにくわぬ顔"でドロン……という次第である。
『ノモンハン事件』

2017年4月9日日曜日

ピアノ線に阻まれて

ピアノ線はキャタピラに深くからみつき、戦車はいずれも「クモの巣に捕らえられた蝶のように」前にも後ろにも動けなくなり、敵の砲火は情け容赦なく降り注いだ。
『ノモンハン  草原の日ソ戦ーー1939』

五味川(純平)氏は、日本陸軍の思考方法は

頑固かつ独善的に敵を過小評価し、理屈に合わなくても楽観するという、百害あって一利ない態度を基本とする"封建的"なものであったとこきおろしている。「やって見なければ何が起こるかわからない。最善を尽くせば道は開ける」という考えはその一つの例である。
『ノモンハン  草原の日ソ戦ーー1939』

2017年4月2日日曜日

「現状の認識と手段においては」

参謀本部と関東軍の間で「いささかその見解を異にし」ているように見えるが「北辺の些事は当軍に依頼して安心せられたし」。
関東軍の乱暴で思い上がった、服従の意思の見られない返電らしきものを受け取って、こんどは参謀本部が腹を立てる番であった。隣国の領土内に戦爆百機以上を送って攻撃したのを”些事”とはなにごとか。関東軍には日本を戦争に追いこむ権利があるのか。どちらが大本営でどちらが現地軍なのか。
『ノモンハン  草原の日ソ戦――1939』

2017年4月1日土曜日

そして多分にあり得ることだが、

もしも”煮えきらない”中央当局が新京での決定に同意しなければ、一九三七年のカンチャーズ事件にかかわった唯一の現職参謀である辻(政信)少佐が個人的にも証言できることだが、今度の場合も統帥の重複のせいで第二のカンチャーズ事件の”過ち”を犯すことになるだろうと論じた。
『ノモンハン  草原の日ソ戦――1939』

彼らは、東捜索隊が全滅したことを告げた。

すると辻(政信)は「全滅とは何事か。君達四人が生き残っているじゃないか」と叱り飛ばしている。
『はじめてのノモンハン事件』

現場に居合わせた一通信兵はもっと辛辣に情景を

説明している。彼の回想では、辻少佐は山県大佐に対し、大佐の同期生である東中佐を救うために指一本すら動かさなかったと痛烈に非難し、戦闘が悲惨な結果に終わったのは、ひとえに山県大佐の”技量の欠如”によると言い切った。
『ノモンハン  草原の日ソ戦――1939』