ページ

2017年11月26日日曜日

不信の国、日ソ中立条約を一方的に破棄。

ヤルタ会談(1945年2月8日の極東密約)にて秘密裏に対日宣戦が約束されていた。

ヤルタ会談でソ連が対日参戦を秘密裏に決めた後の1945年4月5日、ソ連のモロトフ外相は佐藤尚武駐ソ大使を呼び、日ソ中立条約を破棄する旨を通告した(モロトフが佐藤に対して「ソ連政府の条約破棄の声明によって、日ソ関係は条約締結以前の状態に戻る」と述べた)が、佐藤が条約の第3条に基づけばあと1年は有効なはずだと返答したのを受け、モロトフは「誤解があった」として日ソ中立条約は1946年4月25日までは有効であることを認めた。

1945年5月8日、ドイツが無条件降伏。

ソ連は8月8日(モスクワ時間で午後5時、満州との国境地帯であるザバイカル時間では午後11時)に突如、ポツダム宣言への参加を表明した上で「日本がポツダム宣言を拒否したため連合国の参戦要請を受けた」として宣戦を布告、事実上条約を破棄した。9日午前零時(ザバイカル時間)をもって戦闘を開始し、南樺太・千島列島および満州国・朝鮮半島北部等へ侵攻した。
この時、日本大使館から本土に向けての電話回線は全て切断されており、完全な奇襲攻撃となった。

満州で全滅した開拓団は10を数え、死亡者は約7万2千人に及んだ。

不信の国!



駆逐艦「雪風」乗り組みの方のお話しを

聞けるとは思っていなかった!それも、魚雷発射管の配置の方である。
西崎信夫さん(90歳)

戦艦「大和」の沖縄水上特攻時、「雪風」は「大和」の左後方1,500メートルで護衛したとおっしゃっていた。敵機は艦隊の左後方から「大和」に攻撃を集中したので「雪風」は助かったのでは、と言われていた。
『雪風ハ沈マズ』では、「雪風」は「大和」の百二十度(右やや後方)千五百メートル、となっているので要研究である。

千mも立ちのぼった火片と煙。真っ二つに折れて沈む戦艦大和の最期が、瞼に焼きついてはなれない。(西崎さん)




戦場体験者と出会える茶話会@浅草公会堂

語らずに死ねるか!

余りにも重い言葉であります。
私が本日(2017/11/26)お話しを伺ったのは、
坂上多計二(たけじ)さん 92歳
陸軍 実際には入隊前に軍属として働いていた第103海軍軍需部に農場指導員として配属
フィリピン・ミンダナオ島で飢餓を体験


台湾でお育ちになり、台湾・高雄より「日本海丸」でフィリピンのマニラ経由、ミンダナオ島ダバオへ。1944年4月に徴兵検査に合格し、陸軍独立歩兵第165大隊へ現地入隊。1945年5月に米軍がダバオ周辺に上陸、連日の砲爆撃で死傷者続出し営農が出来なくなり、小隊長として隊員30名を指揮してジャングル地帯へ逃げ込み自活生活に入る。

大木に寄りかかり遠目に微笑んでいる日本兵がいて近付いてみると、もう死亡していて、目元口元に蠅が産卵し、人はもう死亡していて蠅が目元と口元にウジを産み付けうごめいているのが、薄目を開け白い歯を見せて笑っているように見えるのだった。

双胴の敵機を見たとおっしゃっていたのは、ロッキードP-38であろう。

米軍のビラを拾い、鈴木貫太郎総理がポツダム宣言を受諾したと敗戦を知ったが、本気になれなかった。9月29日に山から出て降伏。悔しくて戦後、靖国神社には戦友の目をごまかしてまで入らなかったとおっしゃっていた。

何度もお話し中に、ハンカチで目頭を押さえられていた。




「ごめんね、わたしもすぐいくから」

「『ごめんね、わたしもすぐいくから』。そう言って母は3歳だった妹ののどに日本刀をあてがいました」。(72年前、9歳だった時の出来事を語る大島満吉さん(81))
(……)
大島さんは旧満州(中国東北部)の興安南省で家族と暮らしていた。1945年8月9日にソ連が参戦。1千人以上の住民らとともに、一家は安全な場所を目指し、葛根廟(かっこんびょう)へと逃げた。8月14日。目的地の目前でソ連軍に遭遇。ガタガタと音をたて戦車が住民をひき殺し、銃撃戦が続いた。逃げられないと覚悟した母は、近くの在郷軍人の日本刀を借り妹を手にかけた。その直後、はぐれて死んだと思っていた父や兄と再会、終戦翌年の10月に帰国した。
――浅草公会堂(2017年11月24~26日)での「戦場体験者と出会える茶話会」でのお話しより

2017年11月18日土曜日

森(光子)より三つ年下の

(茶道裏千家14代家元夫人の千嘉代子の長男で15代家元の)玄室(げんしつ、94)は特攻隊員だった。出撃命令の出る前に内地で敗戦を迎えた。「特攻の生き残り」として忸怩たる思いを抱えていた玄室に、森は「生きてらっしゃるから、お家を継げるのよ」と声をかけた。
――『都ものがたり 京都』より

27歳のとき、ルポライターになろうと長野県軽井沢町の

大日向地区で取材。旧満州の開拓団の引き揚げ者から体験を聞き取り、「満州・浅間開拓の記」にまとめた。だが、ソ連兵に乱暴された女性らが涙ながらに語る人生は「重く、背負いきれなかった」。(経済ジャーナリスト 萩原博子さん)

2017年11月17日金曜日

繰り返す沖縄の悲しみ

元米海兵隊員で元米軍属のシンザト被告(33)の裁判員裁判が、那覇地裁で始まった。
(中略)
事件を知ったとき、那覇市の宮城須美子さん(78)は70年前の出来事が脳裏に浮かんだ。沖縄戦の直後、米軍が名護市辺野古に造った民間人収容所にいたときのことだ。背が高くて目がぱっちりした15歳のお姉さんがいた。ある日、米兵に家族の前で連れ去られ、夜中、ぼろぼろの服に裸足でぼうぜんと帰ってきた。「娘が」と泣き叫ぶ母親の声が耳に残っている。

2017年11月16日木曜日

人間は決してあのように死んではならない

人間は決してあのように死んではならない
                                               石原吉郎

下半身は俯(うつむ)けになっているのに上半身は仰向いている。シベリアの強制収容所で、事故で命を失い、営倉に投げ込まれてねじ切れた捕虜仲間の姿に、詩人は、死した後も人がまるで物のように屍体(したい)の一つとして処理される、という形でもう一度殺されるのを見る。そして、大量に殺戮されることよりも「ひとりひとりの死がない」ことに戦慄する。評論集『日常への強制』から。

――『折々のことば』より

2017年11月12日日曜日

「泣き虫科学者」

戦後のホワイトハウス。
「自分の手が血に染まっている気分です」(「原爆の父」オッペンハイマー)
ハンカチを取り出して、「拭いたらどうかね」(トルーマン大統領)

ともあれトルーマンはオッペンハイマーの「良心」が気にくわなかったらしい。のちに国務省の高官にあてた書簡で「泣き虫科学者」とこきおろした。
――『日曜に想う』より

人非人!
ハリー・S・トルーマン

「沈めてよいか第五福竜丸」

「パールハーバーを忘れるな、とおっしゃったみたいですけど、私たちは第五福竜丸のことも忘れないでいきましょうという気持ち」(俳優 吉永小百合さん)



第五福竜丸(当時は水産大の「はやぶさ丸」)は 1967 年に廃船処分となり、解体業者に払い下げられ、船体はゴミの処分場であった「夢の島」の埋立地に放置されました。これを知った市民のあいだから保存のうごきがおこり、「沈めてよいか第五福竜丸」の投書(朝日新聞 68 年 3 月 10 日)や原水爆禁止運動など全国で取り組みがすすめられました。
1976 年 6 月に東京都立第五福竜丸展示館が開館し、船は展示・公開されました。