ページ

2018年12月13日木曜日

暴戻なる第二十九軍の挑戦に基因して

いまや北支に事端を生ぜり。わが関東軍は多大の関心と重大なる決意を保持しつつ厳に本事件の成行きを注視す。

昨夜七月七日午後十時半ごろ、北平の南に位置する盧溝橋付近で一発の銃声がまず鳴り響いた。
『満州国演義』

2018年11月25日日曜日

朝飯前の首都攻略

またわが軍のラングーン入城が、市民の歓呼に迎えられ、あたかも凱旋部隊のごとくに待遇されたことは、将兵が眉に唾をして真偽を疑うほどの事態であったが、真相は、西洋人を駆逐した東洋友邦の威力に対する敬愛の民族心理にほかならなかった。
『帝国陸軍の最後』

2018年11月24日土曜日

内地時間で午後四時十二分(現地時間五時四十分ごろ)、

旗艦「鳥海」のマストに三川中将訓示の信号が掲げられた。「帝国海軍ノ伝統タル夜戦二於テ必勝ヲ期シ突入セントス。各員冷静沈着克クソノ全力ヲ尽クスベシ」
『ガダルカナル戦記』

そのとき、地を揺るがす新しい物音が

聞こえてきました。気がつくと、戦車(水陸両用戦車)が退(さが)る敵を逃がしてなるかとばかり迫っているのです。敵は戦車まで上陸させていたのかと、またしてもショックでした。一時は自殺も考えましたが、爆薬も手榴弾も、すでに身に帯びていませんでしたし……。友軍がすっかり去ってしまってからも、私は、累々と横たわる戦友の屍と一緒に、地べたに長くなっていました。
『ガダルカナル戦記』

2018年11月18日日曜日

その弾雨のなかで私たちは、

突撃に備えて銃に着剣し、日本軍独特の夜襲体勢を整えたのです。着剣し終わった銃を右手で引きずり、なおも這いながら前進、と思った途端、前を行く戦友の動きがはたと止まった。何事ならんと訝っていると『川だ』という声が伝わってきた。川(名称、中川)が前進を阻んだらしい、ということがわかってきた。
『ガダルカナル戦記』

2018年11月17日土曜日

我々は暗に乗じて

工兵隊のあやつる鉄舟につぎつぎ乗り込み、渡河した。浅瀬が近づくとそれぞれ鉄舟よりザブンと河に飛び込み、対岸のあらかじめ命令された地点に集結する。
『インパール作戦従軍記』

2018年11月11日日曜日

「……これが佐藤(師団長)からきた電文だ。

――弾一発、米一粒も補給なし。敵の弾、敵の糧秣を奪って攻撃を続行中。今やたのみとするは空中よりの補給のみ。敵は、糧秣弾薬はもとより、武装兵員まで空中輸送するを眼の前に見て、ただただ慨嘆す。……こっちは山内からきたものだ。――第一線は撃つに弾なく、今や、豪雨と泥濘のうちに、傷病と飢餓のために戦闘力を失うに至れり。第一線部隊をして、ここに立ち至らしめたものは、実に、軍と、牟田口の無能のためなり」
『インパール』

2018年11月10日土曜日

「貴官のような臆病者に師団の指導を

させてはおけん。牟田口がここにおって、弓をつれてインパールにはいるのだ。貴官は、わきで見ておれ。戦さのしかたを教えてやる」
柳田師団長の、受話器を持った手がふるえていた。
『インパール』

「弓がそんな山のなかで押えられているのは、

トンザンで敵を逃したからだ。トンザンにいた敵が、その辺を固めてしまったのだ。トンザンで包囲しながら、殲滅しそこなったのは、師団長がやる気がなかったからだ。トンザンで殲滅していたら、今ごろは、なんなくインパールにはいれた。師団長はトンザンでは敵を逃す。そのあと、追撃を命じたのに、ぐずぐずしておって、前進をせん。師団長は戦さが恐しくて、前進できなかったのだろう。敵を助けて、見方を不利にしたのは、利敵行為だ。少しは恥を知れ、卑怯者」
柳田師団長の青ざめた顔に、汗が光っていた。不当な侮辱にたえがたい思いだった。親補職の師団長がののしられているのは、いかにも無残であった。見るにしのびない思いで、その場を離れる将校もいた。
『インパール』

受話器からは、牟田口軍司令官の激しい罵声が

もれて響いた。柳田師団長の顔はこわばっていたが、次第に青白さを加えた。
……
「弓は一体何をしておるのか。何をまごまごしておるか。いまだにシルチャール道に出られないで、うろうろしているとは何ごとか。師団長が臆病風に吹かれているから、兵隊まで戦意をなくしてしまうのだ」
柳田師団長の口もとがゆがんで、ふるえている。
『インパール』

2018年11月6日火曜日

牟田口軍司令官は、わが意をえたというように

胸をそらして、
「補給線をもとうとするから苦労しなければならん。貴官(田副第五飛行師団長)はよく空中輸送のことをいわれるが、インパールのような山や密林では、飛行機では輸送もできん。嶮難な山道だから、地上の輸送もあてにすることはできん。それで、わしはジンギスカン遠征の故智にならって、牛と羊をいっしょにつれて行く」
『インパール』

牟田口軍司令官に

(第十五軍を)追われた(輜重出身の)小畑(信良)参謀長は、ビルマを去る時に、田副(たぞえ)(第五飛行)師団長に語った。――あの男は実に虚栄心が強い。陸軍大将になりたがっている。だから、是が非でも、インパール作戦を実行して、勝たねばならないと思いつめている。
『インパール』

2018年11月4日日曜日

しかし、強引に作戦を主張する牟田口を押えて

その不満を買うことは、牟田口を通じてその直系東条(英機)の怒りを、そのまま自身(ビルマ方面軍司令官河辺正三中将)に刎(は)ね返らせることになるという弱気から、自己の一身を賭してまで、牟田口に反対することを狡(ずる)く避けた。――三個師八万五千余の日本軍を夥(おびただ)しい鉄量と飢餓と、ジャングルの泥濘に白骨化せしめたインパールの悲劇はこうした軍部の、きわめて少数者の反目や野心の犠牲であったともいえる。
『インパール』

2018年11月3日土曜日

♪ 牟田口閣下のお好きなものは

一にクンショー
二にメーマ(ビルマ語の女)
三に新聞ジャーナリスト

誰がいい出したのか、どうせ毒舌好きの報道班あたりから出たのだろう。当時、藤井(朝日新聞社記者)たちの間で、こんな数え唄が酒の席でよく飛び出した。
『インパール』

「何しろわし(牟田口中将)は、支那事変の導火線になった

あの盧溝橋の一発当時、連隊長をしていたんでね。支那事変最初の指揮官だったわしには、大東亜戦争の最後の指揮官でなければならん責任がある。やるよ、こんどのインパールは五十日で陥してみせる」
『インパール』

「確信を持っているのは、牟田口閣下だけ

ということになりますか」
「牟田口のは、確信じゃないよ。あれは神がかりだからね。わしがこの前、この作戦は慎重にやれ、という意見を申し上げた時には、頭ごなしに、戦争の経験のない奴が何をいうか、とどなりつけられた。そこでわしは、閣下には失礼でありますが、中国やマレーの戦さと違って、今度は本物の米英軍ですし、航空兵力は恐るべきものがあります、と申し上げたら、牟田口はいったね。神霊我にあり、神様が必ず助けてくれる、……」
――高木俊朗『インパール』

2018年11月1日木曜日

「参謀長殿は、ふたこと目には一番乗りといって、

中国の城でもとるようなつもりでいます。こんなことを、参謀長殿などがさかんにいうのも困りますが、軍の作戦計画もいかんと思います」(後方主任参謀三浦祐造少佐)
――高木俊朗『インパール』

2018年10月31日水曜日

日本の戦争責任者を、

絞首刑にする極東軍事裁判の判決の声が、ラジオから聞えていた。それでも、私の胸中にわだかまっているものは消えなかった。私は戦争責任者とはなんだろうか、と考えた。私が見聞きしてきたインパール作戦の無謀を強行した愚将らと、それを”補佐”したという幕僚らは、国民に対して責任をとらなくともよいのだろうか。
ーー高木俊朗『インパール』

2018年10月26日金曜日

一歩進んで、この戦争が

なぜあのような悲惨な敗北におわったかを、物の面よりも精神の面で掘りさげて考えることは、われわれの精神の強化に役立つものと、私は考えている。
『ソロモン海「セ」号作戦』

ニューギニアや太平洋の島々の

最前線の将兵が、玉砕を前にして、弾薬も食糧もないと悲痛な叫びをあげていた心が、はたして中央の人々に通じたのであろうか。また拙劣な作戦を拙劣ともおもわずに、多くの将兵を捨て石のごとく南溟の涯にくちさせたのは、中央と第一線将兵とのあいだに、脈々として心の通うものがなかったせいではなかろうか。
『ソロモン海「セ」号作戦』

「太平洋の戦争を通じて日本に二人の

名将がある。陸の牛島、海の田中」(軍事評論家 ハンソン・ボールドウィン)

駆逐艦一隻喪失という冷たい文字の裏には

二百五十名のそうした人びとの献身があり、無言の死がある。陸に海に空に、ガダルカナルをめぐる戦いはまさにそうしたものであった。
『海戦物語  完勝・ルンガ沖夜戦』

2018年10月14日日曜日

伝統の夜戦に敗れたサボ島沖海戦

全艦、戦闘配置についたまま、戦隊はガ島に向けて二〇ノットで疾走していた。
上空に吊光弾が輝き、味方部隊一面が真昼のように照らし出された。
「なんだ、これは!」
司令官の怒号が終わるか終わらないとき、ピカッと敵発砲の閃光がきらめき、敵弾がたちまち(旗艦「青葉」の)右斜め前の「吹雪」の中腹に命中、火災は轟音とともに暗闇の海を照らした。
「敵艦です!」
「配置につけ!」 
「面舵、左戦闘!」

『海戦物語  伝統の夜戦に敗れたサボ島沖海戦』

2018年10月1日月曜日

森崎中尉以下の六機が、

ラバウル東飛行場に帰着するや、いつもの場所で待ちかねていた宮野大尉が、つかつかと近づいてきて、まるで森崎中尉を拉致していくかのように、戦闘指揮所のほうへ伴っていった。
『六機の護衛戦闘機』

サボ島沖海戦

(旗艦「青葉」では)
「戦闘服装に着替え」
の命令が下されたが、すでに乗員は、全員準備が完了していた。
とくに上甲板に戦闘配置のある高角砲員、機銃員、見張員、測的員、探照灯員は、戦闘服装の上に黒色の雨衣をつけ、ゲートルをはいていた。白いゲートルは、全員が墨汁で黒く染めていた。夜戦のための、手ぎわよい配慮であった。

『海戦物語』

2018年9月4日火曜日

ガ島の飛行場が完成した二日後の

昭和十七(1942)年八月七日午前四時十二分
発: ツラギ通信基地
宛: 新設された在ラバウルの第八艦隊司令部(司令長官 三川軍一中将)
緊急信: 『敵猛爆中』

午前四時二十五分
『敵機動部隊見ユ』
『敵機動部隊二〇隻「ツラギ」に来襲空爆中  上陸準備中  救援頼ム』

午前五時十九分
『敵ハ「ツラギ」ニ上陸開始』

午前六時過ぎ
『敵兵力大  最後ノ一兵迄守ル  武運長久ヲ祈ル』
以後連絡途絶

――『歴史群像  2018 APR.』より

旅順要塞第一次総攻撃

旅順要塞第一次総攻撃
明治37(1904)年8月19日~24日
日本軍     戦闘参加総員数  五万七千七百六十五
              死傷者              一万五千八百六十
ロシア軍  戦闘参加総員数  約三万七千
              死傷者              約千五百

24日午後五時
「強襲攻撃を一時中止する。現在地を堅固に守り、爾後の命令を待て」(乃木軍司令官)
『血風二百三高地』

ニ〇三高地の悲劇

設備は清の時代の旧式の陣地に
壕(ごう)を多少増築させるのみ
永久築城なしと思う
               参謀本部の報告より

2018年6月22日金曜日

「俺は知らなかった。あいつ等は

俺を誘わなかった。おそらく俺が新婚の身だったのを、いたわったのだろう。加納も、本間も、山口もだ」
麗子は良人の親友であり、たびたびこの家へも遊びに来た元気な青年将校の顔を思い浮べた。
「おそらく明日にも勅命が下るだろう。奴等は叛乱軍の汚名を着るだろう。俺は部下を指揮して奴らを討たねばならん。……俺にはできん。そんなことはできん」
―― 三島由紀夫『憂国』

軍人の妻たる者は、いつなんどきでも

良人(おつと)の死を覚悟していなければならない。それが明日来るかもしれぬ。あさって来るかもしれぬ。いつ来てもうろたえぬ覚悟があるかと訊いたのである。麗子は立って箪笥の抽斗(ひきだし)をあけ、もっとも大切な嫁入道具として母からいただいた懐剣を、良人と同じように、黙って自分の膝の前に置いた。これでみごとな黙契が成立ち、中尉は二度と妻の覚悟をためしたりすることがなかった。
―― 三島由紀夫『憂国』

2018年6月17日日曜日

赴援隊として入った反乱側の

三連隊の中橋中尉と守備についていた第一連隊の大高少尉が(宮城守備隊)本部でお互いに拳銃を抜いて対峙する緊迫した状況も現出した。ところがついに中橋は一発も撃たなかった、いや撃てなかった。
すでに人を殺してきていますが、さらに殺人を重ねるというのは大変なことだった。結局、青年将校たちがいちばん企図したところの宮城占拠計画が失敗する。
『昭和  戦争と天皇と三島由紀夫』

「ニ・ニ六事件」が起きた瞬間に、

昭和天皇は背広から軍服に着替えた
『昭和  戦争と天皇と三島由紀夫』

一九四四年の二月には、

トラック島ではほとんど日本の航空基地が機能しない状況となる。焦る東條はサイパンを守る守備隊のところに絶対国防ラインを敷いた。とくにサイパンは「東條ライン」と称して難攻不落の防御線を敷いていると天皇に報告している。ところが現実には、ただ海辺に穴を掘っただけの代物でした。
『昭和  戦争と天皇と三島由紀夫』

2018年6月10日日曜日

満洲軍総司令官大山巌は、

いよいよ出征にさいして、海軍大臣山本権兵衛に念を押しています。
「戦はなんとか頑張ってみますが、刀を鞘におさめる時機を忘れないでいただきます」
(日露戦争)当時の日本の人たちの冷静な計算、戦略には見るべきものがたくさんあります。
(……)

翻って太平洋戦争の日本人は……残念ながら、戦争の終結の方法なんて一切考えなかった。「ドイツが勝ったらアメリカも戦意を失う、終戦できるだろう」と他人のフンドシをあてにした。ドイツが負けたらどうするんだなんて、誰も考えてないんです。日露戦争前にはあれほどよく考えた日本人が、昭和になって実に安易であった。無責任であった。
(……)

「戦争はやってみなきゃわからないんだ」(開戦時の永野修身軍令部総長の言葉)
『あの戦争と日本人』

2018年6月9日土曜日

軍人にも、わたくしが非常に立派な昭和人だと

思う人はいます。今村均大将、井上成美大将、小沢治三郎中将……彼らの戦後の生き方は、やはり日本人のいいところを示しました。あのようなバカげたことはもうしない、と戦争責任を真っ正面から受け止めてね。わたくしは、昭和の人にも、この断絶としっかりと立ち向かった人たちに限っていえば、自制と謙虚の美しい昭和の精神があったと思いますね。
『あの戦争と日本人』

2018年6月8日金曜日

そのときに学んだのが、歴史の当事者といえども

ウソをつくんだなということ。最初は聞いてきた話を疑いもせず、レポート用紙に書いて伊藤(正徳)さんに出していたんです。
「半藤君、だめだね、こりゃ」
「どうしてですか」
「この男はウソついてる。この事件のこのときには、この立場にいないよ。いたような顔をしてしゃべってる」
『あの戦争と日本人』

2018年6月6日水曜日

司令官逃避

陸軍刑法は冒頭に述べたように、組織上、下部の者ほどいじめられるように出来ている。この副官のように自分にはできもしないことを他人に押しつけることが、上級の者には許されている。「上官の命を承ること実は直に朕が命を承る義なりと心得よ」と軍人勅諭にあるから、始末が悪い。
著者は巧妙な表現を用いている。「軍隊では、どんなことでも理由になる。あるいは、理由になることでも理由にならない」
その通りである。
――『軍旗はためく下に  第三話 司令官逃避』への五味川純平氏の解説より

2018年6月3日日曜日

昭和十五年七月二十六日、

零式艦上一号戦闘機一型六機が漢口基地に到着した。

八月十二日には零戦の第二陣七機の空輸が行われ、(……)零戦隊は十三機となった。

最初の重慶侵攻は八月十九日に実施された。
零戦隊の指揮官は横山保(たもつ)大尉。
この日の出撃では敵戦闘機は退避してしまい会敵できず、空中戦闘は発生せず空振りに終ったものの、長距離進攻の体験は貴重なものとなった。

八月二十三日には第三次空輸の零戦四機が漢口に到着し、零戦隊は十七機となった。

九月十三日には進藤大尉以下十三機の出撃となった。
この日、零戦隊は陸攻隊と共に重慶に侵入したが、やはり敵戦闘機は退避して会敵できなかった。
しかし、戦闘機隊は攻撃後重慶上空へ引返す策を採り、中国空軍のI‐15、I‐16合計二七機と遭遇、ただちに空中戦となった。
この戦いで日本側は全機撃墜を報告したが、実際には被弾のみの機や不時着機もあり、全機が撃墜されたわけではなかったが全機を撃破した。

敵二倍という劣勢ながら、敵戦闘機すべてを撃墜破したことは画期的な戦果といえた。

「所見  零戦ノ性能優秀ニシテ急上昇ノ性能敵ニ比シ遥カニ優レタル為、急降下急上昇ヲ以テスル攻撃ノ反復ニ依リ敵ヲ圧倒スルヲ得タリ。尚二十粍弾ノ威力極メテ大ニシテ一撃克ク必墜ヲ期シ得タルハ戦果拡大ノ一大原因ト謂フヲ得ベシ」
『歴史群像  2018 FEB.』

番号を持つ特設航空隊の誕生

番号を冠した特設航空隊の筆頭が「十二」で始まるのは、(支那)事変勃発の前年、昭和十一年(一九三六)九月に南支で北海事件が発生した際に九六式陸上攻撃機(中攻)と九五式陸上攻撃機(大攻)とで第十一航空隊が編成されて、短期間台湾に展開したことによる。

また、この当時の特設航空隊は「第十二航空隊」が正式な名称で、太平洋戦争中期(昭和十七年十月以降)の特設航空隊が「第三〇ニ海軍航空隊」と呼ばれたように隊名の途中に「海軍」を挟まない。

第十二航空隊は佐伯航空隊を基幹として旧式の九〇式艦戦六機と九五式艦戦六機、九四式艦爆十二機、九二式艦攻十二機の小型機部隊として編成され、大村航空隊を基幹として九〇式艦戦六機、九六式艦戦六機、九六式艦爆六機、輸送機一機で編成された第十三航空隊と共に第二連合航空隊(七月十五日編成完了)として運用された。

制空と航空撃滅戦の補助、そして地上部隊への協力を主任務とする小型機部隊が第二連合航空隊だった。
『歴史群像  2018 FEB.』

2018年5月26日土曜日

第三一師団の佐藤(幸徳)師団長は、

五月二五日、第十五軍司令部に次のような電報を打った。
「師団ハ今ヤ糧絶エ山砲及ビ歩兵重火器弾薬モ悉ク消耗スル二至レルヲ以テ、遅クモ六月一日迄ニハ『コヒマ』ヲ撤退シ補給ヲ受ケ得ル地点迄移動セントス」
『責任なき戦場  ビルマ・インパール』

敵前逃亡・奔敵

―― 小松伍長に会ったのは、そのときが最後ですか。
―― ええ。軍法会議へ送られて、死刑を言渡された。
―― 自首したのに死刑ですか。
―― 罪名が敵前逃亡と奔敵ですからね。敵前逃亡だけでも死刑になる者が多かった。
―― しかし奔敵というのは。
―― これはあとで知ったことですが、投降した者はみんな奔敵になる。敵側に奔(はし)ったという意味です。負傷して巳むを得ず捕虜になった者でも、そいつは必ず味方の情報を敵に喋ったとみなされ、やはり奔敵罪で処罰される。全く無茶な話だが、負傷して動けなくなったら自爆する以外になかった。
(中略)

―― しかし、そうやって戻ってきた者を死刑にするとはひどいですね。敗戦になって、アメリカ軍に降伏した将官や佐官連中が、その後は自衛隊の幹部になったり政治家になったりししている。
(中略)

―― 小松さんは死刑の判決をうけて、すぐ銃殺されたんですか。
―― いや、これもあとで聞いたことですが、処刑される前の晩に、首を吊って死んだそうです。わたしはそのときの小松さんの気持が、よく分る気がします。口惜しくてたまらなかったに違いない。
『軍旗はためく下に』

2018年5月20日日曜日

何としても中将にして師団長(佐藤幸徳中将)という

高位の軍人を抗命罪に処するために、軍法会議開廷を求める第15軍司令官に対し、同軍法務部長や上級のビルマ方面軍法務部長は、当時の手続法に照らし、15軍や方面軍は将官を裁くための裁判管轄をもたず、それがために軍法会議開廷は原則的に不可能であると応えたにもかかわらず、なおかつ執拗に抗命罪適用による処断を目論む牟田口司令官を納得させるため、方面軍法務部長が自らの責任で、ほとんど成り立ち得ない拡大解釈により捜査権を行使し、佐藤中将は作戦時心神に故障をきたしていたとの理由をこじつけ「不起訴」、すなわち軍法会議を開廷しないとの結論を導き出し事態の収拾が図られた、としています。(高木俊朗『抗命』(1976年))
『軍法会議のない「軍隊」』

2018年5月19日土曜日

特攻中止命令 終戦の2日前

15歳で予科練(海軍飛行予科練習生)となり、航空機操縦の猛訓練を経て1945(昭和20)年8月、鹿児島県の串良海軍航空基地に移った。
13日。いよいよ出撃、別れの日。私と運命を共にする通称「赤とんぼ」に乗り込んだ。本来は練習機だが私に与えられた特攻機で、250キロ爆弾が装着されていた。「落ち着け」と震えの止まらない自分に言い聞かせ、「さようなら」と誰に言うでもなく心で言った。
この期に及んで敵艦に突っ込む心配より、重い爆弾を抱いて飛び上がれるかが心配だった。
指揮する1番機の合図で計4機が滑走路の出発点に並び、エンジンは最大回転に入った。その時、飛行長が前に立ちはだかりバッテンの合図をした。作戦中止だ。何が何だか分からない。
「みんなは若い。しっかり生きていけ」と威厳に満ちた飛行長の言葉。「生きたのだ」と「情けない」の気持ちが交錯し涙が出て仕方がなかった。終戦の2日前のことだった。(大谷光弘さん  89歳)
――『声  語りつぐ戦争』より

2018年5月13日日曜日

百人近くの人たちを取材して、

瀬島龍三の全貌をかなりつかむことができた。そこでわかった大本営参謀時代の実相をあえて語っておくと、要はその人格は四点に絞ることができた。
(一)自らの成した業務は話さない(末端参謀ゆえに些末な仕事が多かった)
(二)自らが仕えた上司や指導者に随行したことを自らの体験のように話す(開戦前、杉山元参謀総長に同行して宮中に赴いたケースなど)
(三)自らがモミ消した疑いのある史実は関係者には洩らしているが、一般には決して話さない
(四)自らの体験を誇大に話す
取材を通じてこの四点にすぐに気づいたのだが、瀬島はさらにいえば「歴史的な自らの証言」と「公と私の区別を曖昧にして必要以上に私の役割を公に置きかえる」といった二つの特徴を色濃くもっている。私は直接、瀬島に二日間にわたって八時間の長いインタビューを試みたが、この特徴を実感した。『幾山河』にもその特徴がよくあらわれていることがわかった。
『帝国軍人の弁明』

話さないことと誇大に語ること

この『幾山河』が昭和史の真実を求める者に評判が悪いのは、そうした事実(大本営参謀としての本音やそれに影響された事実など)がいささかも書かれていないためだ。すでに知られている史実のみがまるで歴史書のように書かれている。
『帝国軍人の弁明』

「長年の伝統からくる「陸は陸」「海は海」

という考え方にとらわれ、「陸海軍統合の全戦力を集中・発揮する」という思想に欠けていたのである」
この結論はとくに目新しいものではない。瀬島が対米戦争計画の策定にかかわっているだけに(たとえ末端幕僚として細部に関してであったにせよ)、その総括がこのようなものであるならば、より具体的に作戦計画のどこにどのような問題があったのかを明らかにすべきであるのにそれが欠如していることは、帝国軍人の回想録としてはいささか不謹慎の謗(そし)りは免れないようにも思えるのだ。
『帝国軍人の弁明』

南部仏印進駐と対日資産凍結

(昭和十六年七月の日本軍による南部仏印進駐は、つまりは「戦争の決意なき準備陣」だったが、陸軍中央部は「北進か、好機南進か」の二者選一に傾いていて、「南北同時二正面作戦は絶対に回避すべき」だったという。しかし米国の石油の禁輸措置により、国力のジリ貧状態を脱すべく「対米戦は避けられないのではなかろうか」と変わっていく。瀬島もそのような方向に変わっていったと記述している)
『帝国軍人の弁明』

昭和十四年十二月に、瀬島(龍三)が

配属されたときの参謀本部は四つの重大問題を抱えていたというのである。
「①ノモンハン事件の後始末
②支那事変の長期化
③修正軍備充実計画(昭和十四年度からスタートした陸軍軍備充実計画の見直し)
④昭和十四年九月から始まった欧州戦争(第二次世界大戦)への対応」
『帝国軍人の弁明』

2018年5月6日日曜日

真崎に無罪の判決がだされたのは

昭和十二年九月十五日である。この判決文を陸軍大臣の杉山元は天皇に届けている。
(中略)
このへんに東京軍法会議の限界と、破滅戦争に向かう足音が聞える。だが、「真崎無罪」判決文に対し一言の不満も洩らせずに謄写を手もとに保存する天皇の姿に、天皇の権限をも無力化している天皇制の本質がある。
ともあれ、「二・二六事件」はこうして終った。そしてこの頃、二・二六の初年兵たちは、歩一歩三の二年兵として応急派兵され、北支の戦線でたたかっていた。もと安藤(輝三)隊だった歩三第六中隊など、この戦闘でほとんど全滅したという。
『松本清張と昭和史』

「真崎無罪」の意味するもの

そして(『昭和史発掘』の)終章では、皇道派の重鎮とされていた真崎甚三郎にふれる。その判決文を紹介しながら無罪になる意味を具体的に解きほぐしている。この判決文のおかしさは、真崎の被告としての犯罪行為を次々に指摘していき、さらに他の証拠もあってこれを認めるのに困難ではないとしながら、結論として次のようになるというのだ。そのことを松本(清張)は鋭く突いている。

《……然ルニコレガ叛乱者ヲ利セムトスルノ意思ヨリ出デタル行為ナリト認定スベキ証憑(しょうひょう)十分ナラズ。結局本件ハ犯罪ノ証明ナキニ帰スルヲ以テ、陸軍軍法会議法第四百三条ニヨリ、無罪ノ言渡ヲナスベキモノトス》
主文は「被告人真崎甚三郎ハ無罪」である。
『松本清張と昭和史』

2018年5月5日土曜日

昭和陸軍の軍事指導者たちの手記の類は、

戦後七十二年の今、三百冊ほどになるのではないか。むろんここには私家版も含めてということなのだが、こうした類の書にふれてきた者として言えることは、次のような特徴に注目して分類が可能だということである。あえて箇条書きにしておきたい。
(一)昭和陸軍の軌跡と自らの軌跡を同一化した書(自省なき書)
(二)昭和陸軍の中枢にいたが、自らはその政策に疑問を持っていたとの書(二元化した書)
(三)昭和陸軍の軌跡に関わりなく自らの歩んだ道を説く書(史観なき自分史)
(四)昭和陸軍を擁護し自己正当化するだけの書(自己賛美の書)
(五)徹底した昭和陸軍の実態批判の書(自己弁護の書)
(六)客観的に昭和陸軍と自己の歩みを綴った書(史料になりうる書)
(七)次世代に語り継ぐために書かれた書(継承の書)

本書を通じて、軍事上の責任が問われるべき軍人の回想録や手記と必ずしもそうではない軍人との回想録の類を見分ける目を持ってほしいと思う。
『帝国軍人の弁明』

軍人たちの書き残した個々の戦場体験や

戦争体験を見ていくとわかるのだが、近代日本は日本独自の軍事論をもたないままだったといってもよかった。その結果、昭和十年代の軍事指導者たち、あるいは高級軍人は、陸軍大学校でドイツから招いたメッケルというお雇い軍人教官の戦略、戦術を軸にした軍事論を丸暗記した者が成績優秀者とされて、軍令を担うことになる。そういう人物が日中戦争や太平洋戦争の指導にあたった。前述のド・ゴールのように、幅広い知識を身につけているわけではなく、戦略、戦術のみを学び、まるで戦う「機械」のような存在としてふるまったのだ。
『帝国軍人の弁明』

2018年4月30日月曜日

迫水(久常書記官長)さんは

「龍三さん、内外の戦局は我が国にとって極めて悪い。鈴木内閣としては、まさに正念場だ」と前置きし、「陸海軍は本土決戦を強く主張しているが、本土決戦で本当に勝ち目はあるのだろうか」と聞いた。
『瀬島龍三回想録  幾山河』

2018年3月30日金曜日

「貴様らの行為は反逆罪だ。検挙せい!

渡辺大佐。宮城内の芳賀連隊長に連絡して、私を乾門で迎えるよう告げよ」(田中静壱
東部軍司令官@映画「日本のいちばん長い日」 昭和二十年八月十五日 午前五時頃)

2018年3月23日金曜日

20歳で召集令状が来て、鳥取の連隊に入りました。

陸軍二等兵です。ラッパ卒になったんだけど、うまく鳴らなくてね。罰の駆け足がいやなものだから、やめさせてくれと人事係の曹長にたのんだ。そうしたら南方戦線へ。黙っていれば鳥取におれたのにね。(漫画家、故・水木しげるさん)

2018年3月15日木曜日

脱北者が語る北朝鮮の日常

朝日新聞・東亜日報共同調査(2014年)

高政美さん(53) 03年脱北、日本在住。
「大学の教員として、平壌であったマスゲームに参加した女子学生を引率した。約2カ月前に平壌入りして練習した。少しの失敗でも教員ともども政治犯にされるので、厳しく指導して学生をたたいたこともあった」

女性(40) 11年脱北、韓国在住。
「高校卒業後、芸術専門学校に入って声楽を専攻したが、1年もたたずに退学になった。『愛慕』という韓国の歌を歌ったから。もう一度歌えば、母は死ぬと言われた。その時から歌は歌わない」

男性(22) 09年脱北、韓国在住。
「軍人も賄賂がなければ昇進できない。党員になろうにも軍隊内の政治指導員にたばこ1カートンでも渡す必要がある」

2018年3月14日水曜日

「あっ、船の中から船が出てくる」……

昭和20年4月1日朝、
米軍の上陸用艦艇が
海を埋めつくした……。
――『歴史群像 AUG. 2017』より

2018年3月2日金曜日

「一日待てば、ソ連が満洲、朝鮮、樺太、ばかりか

北海道にまで来る。ドイツ同様分断される。相手がアメリカのうちに始末を付けねばならん」(鈴木貫太郎首相@映画「日本のいちばん長い日」)

2018年2月22日木曜日

〈水脈(みお)の果て

炎天の墓碑を置きて去る〉(金子兜汰さん)

航跡の向こうに残した仲間への鎮魂。

2018年2月15日木曜日

1997年衆院本会議、沖縄の駐留軍用地特別措置法の

改正時。
(野中広務氏)自身が62年に沖縄を初めて訪問したときのことを引き合いに出した。乗ったタクシーの運転手がサトウキビ畑の前で止まって「妹がそこで殺された」と泣き始めた。しかもやったのは米軍ではなかった、と。自分はこの出来事が忘れられない。国会の審議が大政翼賛会的にならないように――と続く。

「私は、今日の野中さんの発言に涙が出ました。あなたみたいな政治家に会えてよかった。本当に素晴らしかった。私も沖縄には同じ思いです」(当時、社民党の1年生議員だった中川智子氏)
夜、中川氏が議員宿舎に帰ると郵便受けに野中氏からのメモが入っていた。「これから困ったことがあったら、何でも相談しなさい」。携帯電話の番号があった。

2018年2月1日木曜日

「……古い苦しい時代を生きてきた人間として、

今回の審議(橋本龍太郎政権下の1997年夏の駐留軍用地特別措置法改正の衆院本会議)が、どうぞ再び大政翼賛会のような形にならないように若いみなさんにお願いをしたい」(衆院本会議での可決に先立つ委員長報告の最後での、野中広務氏の異例の発言)

政界を引退した2003年の、「毒まんじゅう」は流行語大賞に選ばれた。

「戦前の私たちは知らないうちに教育され、戦争に突入した。私はこうした民族性に恐怖を感じる」(著書より)

また、戦中の体験などから「憲法9条は変えてはならない」と主張していた。

「野中氏の死去で、政治が弱者のためにあった時代が完全に終わった」(政治家としての姿を描いた「野中広務  差別と権力」の著書があるジャーナリスト、魚住昭氏)

2018年1月31日水曜日

軍艦の艤装は、

ある程度、工事が進むと、実際にそのフネに乗り組んで運用する人たちが加わる。艤装員とよばれるこの人たちの仕事は、設計や建造の段階で見落とされた使い勝手などの細かな点について改良を指示することもあるが、むしろ竣工後の乗組員予定者として早くからそのフネに慣れさせておこうというのが狙いだ。
『飛龍 天に在り』

2018年1月26日金曜日

伝統から得た「義」 信条に

故・西部(邁、すすむ)さんが歴史的な伝統から得たもっとも大事な価値は、義へ向けた精神であり、自立の矜持であり、節度であり、優れたものを前にした謙虚であり、逆にきらったものは、怯懦(きょうだ)や欺瞞であり、虚栄であり、独善的な自己宣伝であった。(佐伯啓思氏)

「戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは

心配ない。平和について議論する必要もない。だが、戦争を知らない世代が政治の中枢となったときはとても危ない」(田中角栄元首相)
――『戦争の大問題』より

2018年1月22日月曜日

Air Raid Pearl Harbor This Is No Drill !!!

(真珠湾空襲、演習にあらず)
ホノルル海軍航空基地作戦士官ローガン・ラムジー中佐は、無線室に向かって廊下を走り、当番兵に上記の電文を平文で打てと命じた。

2018年1月21日日曜日

「何度だって行って、爆弾を命中させます」

という佐々木(友次)さんに、「必ず死んでもらう」と繰り返し特攻が命じられる。
――『不死身の特攻兵  軍神はなぜ上官に反抗したか』より

「(……)(まず雷撃隊は全滅するだろうな。

おそらくいちばん先に靖国神社へ行くことになるだろう)そんなことを考えながら隊員たちの顔を見わたすと、気のせいかだれもが真剣そのものの表情をしている」
――蒼龍雷撃隊員森拾三二飛曹の手記より
『真珠湾攻撃作戦』

2018年1月17日水曜日

出撃前、真珠湾を見立てた雷撃訓練は

彼(中村豊弘二飛曹)の想像を絶する過酷さであった。中村二飛曹はこれをシンガポール港湾攻撃と誤解していたが、その訓練は、まず訓練用魚雷を抱いた九七式艦上攻撃機で鹿児島基地を飛び立ち、城山の右、甲突川上流三、〇〇〇メートル上空に占位することからはじめられた。
「全軍突撃せよ」の合図で単縦陣となり、西方山に囲まれた女学校校舎を目標に、四五度の緩降下で一気に沖合の浮標に殺到する。
そのときには、校舎三階の女学生が見下ろすことができるほどの低空を飛んでいる。(うるさくて勉強はできないだろうな)と、つぶやきながら高度二〇メートル、機速一六〇節で魚雷を投下する。
この高さでは高度計は零を指し、翼端には波しぶきがかかりそうな低空飛行となる。
『真珠湾攻撃作戦』

2018年1月13日土曜日

蒼龍の水平爆撃隊指揮官阿部平次郎大尉は、

嚮導機の金井昇一飛曹が一日もおかず格納庫に入り、自機の九七艦攻で爆撃照準のテストをくり返すのを眺めていた。
艦型を形どった大きな紙を下に敷き、整備員たちが徐々に引き出すのを見下ろしながら、「ヨーイ」「テイ!」で投下索を引くのである。それを、あかずくり返す。
「私はそれを見て感嘆しながら、この男と一緒ならば命中間違いなしとの確信を持っていた」
『真珠湾攻撃作戦』

2018年1月9日火曜日

ミッドウェー島北東海面で待ち伏せ

応急修理が終わったばかりの「ヨークタウン」を擁した第十七機動部隊が、第十六機動部隊(「エンタープライズ」、「ホーネット)」の待つ”幸運点”にすがたをあらわしたのは、六月二日のことであった。
合流した二つの部隊は、この、ミッドウェー島の北東四百マイルの洋上を、いったりきたりしながら、日本機動部隊の進攻を待ち受けていた。

(珊瑚海海戦での)「ヨークタウン」の傷は

二発の至近弾と、一発の直撃弾によるものであった。至近弾の被害は軽かったが、直撃弾は飛行甲板の下段で爆発し、周囲百フィートにもわたって構造物を破壊していた。
(……)
「どんなにいそいでも数週間はかかるであろう」(工場長のK・ジット大佐と、船体修理の専門技師J・プイングスターグ少佐の見積もり)
(……)
「われわれはこの艦を、どうしても三日間で修理しなければならない」(チェスター・ニミッツ)
低い声だったが、しかし、あくまで断定的なひびきがこもっていた。
――『ミッドウェー戦記』より