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2018年5月19日土曜日

特攻中止命令 終戦の2日前

15歳で予科練(海軍飛行予科練習生)となり、航空機操縦の猛訓練を経て1945(昭和20)年8月、鹿児島県の串良海軍航空基地に移った。
13日。いよいよ出撃、別れの日。私と運命を共にする通称「赤とんぼ」に乗り込んだ。本来は練習機だが私に与えられた特攻機で、250キロ爆弾が装着されていた。「落ち着け」と震えの止まらない自分に言い聞かせ、「さようなら」と誰に言うでもなく心で言った。
この期に及んで敵艦に突っ込む心配より、重い爆弾を抱いて飛び上がれるかが心配だった。
指揮する1番機の合図で計4機が滑走路の出発点に並び、エンジンは最大回転に入った。その時、飛行長が前に立ちはだかりバッテンの合図をした。作戦中止だ。何が何だか分からない。
「みんなは若い。しっかり生きていけ」と威厳に満ちた飛行長の言葉。「生きたのだ」と「情けない」の気持ちが交錯し涙が出て仕方がなかった。終戦の2日前のことだった。(大谷光弘さん  89歳)
――『声  語りつぐ戦争』より

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